青秋林道建設計画

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白神山地に広がるうっそうとしたブナの森が大規模に伐採されたのは、昭和四十七年(一九七二)に開設された弘西(こうせい)林道(現在の県道岩崎西目屋弘前線の一部、愛称白神ライン)によってである。津軽地方の経済的発展の夢を担ったこの林道は、現実には甚大な自然破壊をもたらした。それは赤字に苦しむ林野庁の大面積皆伐方式に原因があった。川の水量は三分の一になり、濁り、被害は河口沿岸の海藻類に及んだ。しかも、一時期潤った木材業は輸入材に圧倒されてしまった。しかし、開発の視点は、なお残る青秋県境一万六〇〇〇ヘクタールのブナ原生林に向けられた。
 昭和五十三年(一九七八)十二月六日、秋田県選出国会議員野呂田芳成を会長とする青秋県境奥地開発林道開設促進期成同盟会が秋田県八森町で結成された。本県からは岩崎村(現深浦町)、鰺ヶ沢町、西目屋村の三町村長と議会正副議長、関係各常任委員長が出席した。これに八森町を含む四町村長は副会長となり、本県の田沢吉郎代議士と秋田県の石田博英代議士は顧問となった。八森町と西目屋村を結ぶ青森県境奥地開発林道は、すでに八森町から同町の濁川林道まで一二キロが完成しているほか、西目屋村の弘西林道側から進められている大川林道の約七キロの工事が行われており、残るのは青秋県境を結ぶ全長一ハキロの峰越ルートだけとなっていた。計画路線では鰺ヶ沢町の奥赤石川林道と結ばれ、一方、岩崎村でも大間越の津梅川林道の延長によって青鹿林道(同盟会設立当初の青秋林道の呼び名。県境付近にある青鹿岳にちなむ)に直結できるので、開通後は産業道路として、また、十二湖につながる観光道路として期待されていた。
 そして、四年後の昭和五十七年四月五日、林野庁が青秋林道-広域基幹道路・青秋線(総延長二六・七キロ)の実施計画を承認し、八月、秋田工区、青森工区がそれぞれ着工した。

図11 青秋林道計画路線図