反対運動の展開

690 ~ 691 / 965ページ
昭和六十年(一九八五)六月、日本自然保護協会主催で秋田市で「ブナ・シンポジウム」が開催され、ブナ原生林保護運動がますます盛り上がった。ここで批判を受けた秋田県藤里町を経由する秋田工区のルートが鰺ヶ沢町の町民に知らされぬまま付け替えられ、工事が進められた。しかも、青森県は鰺ヶ沢ルートに同意する意見書を青森営林局に提出し、青秋林道予定地では着工許可前にブナなど二〇〇本以上伐採され、農林水産省も青森県知事あてに保安林解除を通知した。反対運動は危機に陥った。しかし、保安林解除に対して異議意見書で抵抗できることを知った連絡協議会のりーダーたちは必死に行動し、赤石川流域の一九集落で集会を開き、弘西林道の害悪を目の当たりに見、昭和二十年の大然(おおしかり)山津波を記憶にとどめた流域民を立ち上がらせた。
 赤石川は金アユの川で、昔は一簗(やな)で一万尾も取れたという。簗は六ヵ所もあった。今は一ヵ所しかなく、ほとんど県外産の放流ものである。山はまた山菜の宝庫だった。炭焼きもマタギの生業だった。しかし、弘西林道の開設は山河を破壊し、村をだめにした。漁業組合長は当時の弘西林道を「三カラ林道」と言った。いたるところ、カラ瓶、缶カラ、弁当ガラが散乱し、腐臭を放っているからである。
 反対運動は生存を懸けた運動となった。住民らの保安林解除に反対する意見書が約一万三〇〇〇通提出された。昭和六十二年(一九八七)十一月、北村正哉(まさや)青森県知事は青秋林道建設見直しを発言した。平成二年(一九九〇)二月二十八日、林野庁は白神山地を森林生態系保護地域に指定し、青秋林道建設は中止となった。そして、平成五年、第一七回世界遺産委員会で白神山地は屋久島とともに自然遺産に登録された。

写真218 白神山地のブナ林