(二)明治言論界の巨星・陸 羯南

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 本県の散文界に新しい文学の運動の萌芽を看取できるのは、明治の後半になってからである。すなわち中央文壇で自然主義の気運が澎湃(ほうはい)として高まった時期である。その意味で、明治三十七年(一九〇四)に、函館へ向かう島崎藤村を秋田雨雀(明治一六-昭和三七 一八八三-一九六二 黒石市)と鳴海要吉(明治一六-昭和三五 一八八三-一九六〇 黒石市)が青森駅で出迎えたことは象徴的な出来事といっていい。なぜなら、島崎藤村に深く傾倒していたこの二人が青森県の近代文学の草分けであったからである。
 その一方で、北端の地にも文明開化のうねりは緩やかではあったが確実に押し寄せていた。十一年(一八七八)には活版印刷による県内初めての雑誌「開文雑誌」(資料近・現代1No.七三〇)、二十一年には「田舎新誌」(資料近・現代1No.七三一)が創刊され、同年十二月六日には後に県内の文壇に大きな影響を与えることになる「東奥日報」が創刊されているからである。
 しかし、本県の散文を語るとき、なにをおいても、まず挙げなければならないのが陸羯南であることは、いうまでもない。

写真242 陸羯南