独立不羈の陸羯南

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弘前市出身のルポライターの鎌田慧は、著書『反骨のジャーナリスト』(平成十四年 岩波書店刊)において、明治期の言論界の雄として大活躍した郷土の偉大な先達である陸羯南を、みごとに現代に甦(よみがえ)らせた。むろん、陸羯南を評価した研究者はほかにもいる。例えば柳田泉(資料近・現代1No.七一九)が、そうである。
 陸羯南は明治政府の強権政治を完膚(ぷ)なきまで批判する。したがって、「日本」は、鎌田慧の言葉を借りれば「権力的な高官には蛇蝎(だかつ)のごとく嫌われていた」のである。
 しかし、羯南は屈しない。新聞記者を「天職」と信じていたからである。鎌田はそこに羯南の心意気をみた。
法律や政治の力によって、ではない。文筆による啓発。それによって、社会を改良しよう、というのが、新聞の職分である。それが羯南の心意気だった。
(前掲『反骨のジャーナリスト』)

 鎌田は、さらに、羯南の「人民は水なり、政事家は舟なり。水能(よ)く舟を載せ、水能く舟を覆す。政事家たる者能く此大勢を察して運動せざるべからず」という発言について、前掲書においてこう述べる。
いまなお通用する民主主義の鉄則である。政治運動の原動力とは、けっして政治家ではない、人民である、と羯南は喝破していた。政治家は「営利の業」ではない。ひとつの公職である。それとおなじように新聞記者もまたひとつの「天職」である。みずから選んでこの天職に就いているのではないか、というのが、羯南の「新聞記者論」のエッセンスである。
 鎌田はここに羯南の「心意気、というものであり、ジャーナリストの神髄」を看(み)て取ったのである。
 だから、こうも言える。郷土の後輩たちは確かに羯南のその心意気を継いでいる。柳田泉の追想文(資料近・現代1No.七一九)からも充分読み取れる。むろん、鎌田もその一人である。いや、それだけではない。羯南の心意気は、確実に鎌田の心のなかに息づいている。
 陸羯南をパイオニアとし、多くの言論人、文学者が輩出した郷土を誇りに思うと同時に、本稿が、後輩が先輩を高く評価する、というスタイルで津軽の文学を概観しているゆえんは、まさに、この羯南の巨大な存在があったからである。

写真244 陸羯南漢