まことに偉大な作家である石坂洋次郎が、太宰治にも強い衝撃を与えた「麦死なず」(昭和十一年)をはじめ、「若い人」(十二年)の成功で作家的地位を確立したことについては、すでに述べたが、戦後の大活躍は特筆に値しよう。
昭和二十二年(一九四七)六月八日に「朝日新聞」に連載を開始した「青い山脈」が大ヒットし、記録的なベストセラーとなった。以後も新聞や雑誌に、いわゆる〈青春物〉を次々発表し、流行作家として世に迎えられ、〈青春物作家〉とも〈百万人の作家〉とも称された。また、「青い山脈」の五度にわたる映画化など、石坂作品を原作とした映画は、実に八〇本に迫るという驚異的な数字を残している。
昭和十一年(一九三六)には『若い人』で第一回三田文学賞(同前№六五七)を、四十一年(一九六六)には「健全な常識に立ち明快な作品を書き続けた功績」で第一四回菊池寛賞を受賞した。