三味線は貧しい人々には、入手するのが困難であり、民謡に伴奏として用いるものも少なかったと思われる。独奏楽器として発展したのに大きな影響を与えた人々の中には、ボサマと呼ばれた階級の人々がいた。貧困、門付けなどの生活境遇から津軽三味線の特異性をその人々に引き寄せて語られることが多い。ボサマといわれた者の何人かが、津軽三味線を洗練させ、様式が確立され、継承される過程で一定の役割を演じたと思われる。しかしながら、音楽の需要と供給の関係、とくに享受者が誰であったかを検証すれば、ボサマたちの音楽であったとするよりは、庶民、とりわけ農民たちの音楽であったと理解した方がよいであろう。白川軍八郎(しらかわぐんはちろう)(明治四二-昭和三六 一九〇九-一九六一)、木田林松栄(きだりんしょうえい)、福士政勝(ふくしまさかつ)などが独奏としての曲弾きの伝統をつくった。高橋竹山(たかはしちくざん) (定蔵(さだぞう))(明治四三-平成一〇 一九一〇-一九九八)の貢献は大きく、それに続く山田千里(やまだちさと)(昭和六-平成一六 一九三一-二〇〇四)、長谷川祐二(はせがわゆうじ)などが「津軽三味線協議会」に全国の奏者を集結させて現在に至っている。
昭和五十七年(一九八二)、全国規模の競技会が山田千里によって立ち上げられ、平成十七年で二四回になる。大会は文字どおりプロとなるための登竜門として機能している。テレビ等で活躍している以下の人々は大会のA級チャンピオンになった者たちである。木下伸市(きのしたしんいち)、上妻宏光(あがつまひろみつ)、渋谷和生(しぶたにかずお)、長峰健一(ながみねけんいち)、岡田修(おかだおさむ)など。吉田兄弟もジュニア部門での入賞者である(なお、津軽三味線全国大会は金木町でも行われている)。山田千里は昭和五十年代から他分野の音楽ジャズ、ロック、クラシック、現代音楽、タンゴ、邦楽などとの融合を試みた。その潮流がその後の若手演奏家の傾向の一つになっている。