著者は明治二十年代幼少七・八才の頃から弘前市北辰堂道場で旧津軽藩の指南役対馬健八等に一刀流の手ほどきを受け、続いて青年の頃から中畑英五郎に就いて師が八十二才の高齢に達するまで絶えず一刀流の指導を受けた。(中略)更に著者は小野次郎右衛門忠一から津軽土佐守信寿に伝え、爾来代々津軽家に伝わった一刀流の正統直伝を悉皆伝えられ、一刀流の一切の技法、目録、口伝聞書極意解説書等を相伝している。著者は大正十四年に市川宇門、渋谷文男等の同志と図り、弘前市に護国館道場を創立し、古来の武道各種各流各派を奨励し特に一刀流の研鑚に力を致した。
笹森順造が昭和四十年、八十歳のとき著した『一刀流極意』の緒言の一節であるが、剣道の歴史について、日本の歴史を踏まえながら鳥瞰し、さらに弘前市の明治維新以後の小野派一刀流の流れについて触れている文章で、北辰堂の位置づけを確認することができる。
また、市川宇門(いちかわうもん)らと協力しながら古来の武道の奨励に尽力していた事実も確認できる。さらに、昭和二十五年、全日本竹刀競技連盟が発足し、会長に就任するなど、政治家、教育者としての業績は言うに及ばず、古剣道、剣道の振興に貢献したその功績はまことに大なるものがある。
なお、昭和三十九年十月五日には、新装なった日本武道館において、第一八回夏季オリンピック・東京大会でのデモンストレーション武道大会で、日本古武道の形として、鶴海成知と一刀流高上極意五点を演じている。
写真304 笹森順造