四十二年、旧制第二高等学校(現東北大学)の剣道師範となる。大正六年(一九一七)、関東都督府(旧満州)巡査兼外務省巡査を命ぜられ剣道師範となる。数々の全国大会において、勇猛な気と剛剣を天下に知らしめ、さらに国内はもとより遠く旧満州までその名を轟かせた。十一年に帰郷し、青森県巡査教習所の剣道教師となり、青森師範と青森中学校の剣道師範も兼ねた。その指導の仕方は相手が誰であろうと全身全霊を傾けて烈(はげ)しく打ち込む、容赦なき指導であった。
十四年には前述したように、笹森順造、渋谷文男、池田信吉らと弘前市に護国館剣道場を建設、自ら師範として指導に当たった。十五年、大日本武徳会より教士の称号を授与された。弘前中学校(現弘前高等学校)の剣道師範も務める。昭和四年(一九二九)、御大礼記念武道大会で指定選士に推挙されて出場し、市川の面打ちと称された。警察や学校の師範を務めるなど、青森県の剣道の振興・発展に尽くした功績は大きい。生まれつきの豪傑肌で、いささかの不正も許さぬ正義漢ゆえに数々の武勇伝がある。
その豪傑肌が時として大きな〈事件〉を惹起することもあった。剣道史上最大の遺恨試合と称された青森中学と弘前中学の剣道試合を「弘前新聞」は詳細にわたって報告している(同前No.七七四)。
昭和十四年九月、波瀾万丈の生涯を閉じた。大日本武徳会より剣道八段範士の称号が授与された。
写真305 市川宇門