野球が
日本に紹介されたのが明治五年(一八七二)とも、六年ともいわれるが、青森県には十一年(十九年説もある)に伝えられたという。十一年にアメリカ人の宣教師が
東奥義塾に伝え、十九年には青森師範で樋口亮教諭が校庭で生徒に
野球を指導したと報告されている(小林俊一『あおもり
スポーツ群像』
東奥日報社、一九七七年)。そして、二十五年、その
東奥義塾と青森師範が初めての
野球対校試合を開催、三十六年には青森県立第一中学校(のち
弘前中学校、現弘前高等学校)と大館中学校が対校試合を行っている。ちなみに、この年に第一回の早慶戦が始まっているのも興味深い。いずれにしてもプレーの仕方も現在とは異なる。しかし、明治後半のころにはまことに白熱した対校試合が展開されている。
その興奮の一部を紹介したい。大館中学校が五対四で一点リードのまま九回を迎える。
長尾四球に出て、続く油川尽きぬ恨(うらみ)は二塁に残れども、氏が勇ましき戦死の偉功は葛西の生還によりて愈々(いよいよ)其の光りを発揮せり、八木橋敵陣に切て入る其暇に長尾はホームインなる叫声に迎へられ、児玉の打撃は之れ身の為ならずして八木橋易々と本塁に侵入せり
(「弘前第一中学対大館中学の
野球試合」、資料近・現代1No.七七五)
つまり、青森県立第一中学校が逆転したのである。「凱歌は挙れり、而して磁針は当に北を指し、勝星三点長く光芒(こうぼう)を引て鷹ケ岡城に落ちたり」と語るこの観戦記は、美文調ゆえにその興奮状況をよく伝えていると思われる。