冬季オリンピックへ出場

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弘前市にゆかりの深いスキー選手で、冬季オリンピックに出場した選手は、延べにして三〇人を数える。そのトップを切ったのが、昭和十一年、第四回冬季オリンピック・ガルミッシュ大会の距離種目に出場した山田伸三(やまだしんぞう)、山田銀蔵(ぎんぞう)両選手であった(同前No.六九六)。この二人は大鰐スキーの黄金時代を築いたと評価されている。
 長崎(ながさき)(旧姓・松岡)昭義(あきよし)選手は弘前高等学校時代からスキー距離選手として活躍し、昭和三十九年、全国高等学校スキー選手権大会、国体スキー少年組15キロで二年連続優勝(同前No.七〇四)している。さらに、四十三年、冬季オリンピック・グルノーブル大会、四十七年には札幌大会に出場し、二大会連続出場をなした。
 同じく距離では、佐々木一成(ささきかずなり)選手が第一四回のサラエボ大会から四大会連続出場という偉業をなした。本県のスキーが距離競技で抜群の力を持っていたことを証明するものであるといえよう。
 アルペンで活躍したのが、木村公宣(きむらきみのぶ)選手である。弘前市立第三中学校から東奥義塾高等学校に進学し、早くも全国高校スキー大会で、回転と大回転で優勝し、注目を集めた。以後、平成二年には札幌アジア冬季大会の回転で優勝、翌年にはユニバーシアード回転で優勝するなど実力を発揮した。
 冬季オリンピックは、第一七回リレハンメル大会、第一八回長野大会と出場し、そして、木村にとって最後のオリンピックとなった平成十四年の第一九回ソルトレーク大会には、弘前市ゆかりのスキー距離の蛯沢克仁工藤博福田修子古沢緑らと出場したことは記憶に新しいところである。
 アルペンでは石岡拓也(いしおかたくや)選手が三大会、複合では古川純一(こがわじゅんいち)選手が二大会、距離では蛯沢克仁(えびさわかつひと)選手が二大会と、それぞれ連続出場を果たしている。