昭和三十七年、石倉守拙が書道では最初の県文化賞を受けた。県文化賞はこのあと、松子、蘭山、秀香と続いた。昭和四十年四月、戦後の新体制のもとの正式顧問として藤原楚水、上田桑鳩、手島右卿、金子鷗亭、桑原翠邦、春名好重を推戴した。
このころ佐藤中隠(さとうちゅういん)の活躍が目覚ましく、昭和三十九年から日展に連続一〇回入選を果たし、毎日書道展では最高賞の毎日賞を受賞、創玄書道会(金子鷗亭)青森支部として弘玄書道会を結成、福士夕湖(ふくしゆうこ)ら多くの女性書家を育て、その近代詩文の書は大きな影響を与えた。昭和五十八年にはミュンヘンで個展を開催した。
昭和四十七年、桑原翠邦は全日本書芸文化院会長を退き、書宗院を組織化し、新発足をした。宮川逸仙に学んだ加賀谷雪泉(かがやせつせん)は書宗院に参加、その南ケ丘書道会に、昭和四十六年、桑原翠邦は弘潤書道会と命名した。会の代表は加賀谷雪泉、古典臨書を中心にしている。
福士夕湖は、中隠亡き後弘玄書道会の代表として一門の指導、そして近代詩文、かな、漢字と多面的に活躍、青森県文化振興功労賞を受賞した。石倉守拙、明石春浦に学んだ吉沢秀香(よしざわしゅうこう)は「厳しい刀匠一家の風気で長じた人」(春浦)の心を書に燃やし、欧米や中国などにも赴き、洛陽の竜門石窟世界遺産記念の石碑にその書が刻された。現在、鐵心書道会長として後進の育成に努めている。
なお、七十余年の北門書道会の歴史に忘れてならないのは、虚洞、達郎、良郎と三代にわたって主幹として会の生成発展に尽くした今泉家の貢献である。