津軽藩では、慶長十九年(一六一四)に南溜池(現南塘グラウンド)が築かれ、人馬の水練場にもなっていた。天保十五年、藩では水練指導をした四人の藩士に二両ずつ賞金を与えた。また、安政二年岩木川真土(まつち)の川原で承祜(つぐとみ)公の水練見学もあった。特に一二代藩主津軽承昭(つぐあきら)はしばしば水練を見学、脱衣場や西洋型のボートまで作らせた。格別上手の子弟は昇進取り立てもした。したがって水練が盛んになった。
津軽承昭は、熊本藩主細川斉護(なりもり)四男で、津軽一一代藩主順承(ゆきつぐ)の婿養子だった。熊本藩は泳法が盛んで、小堀流踏水術という水中の武闘や作業ができる立游(たちおよぎ)に特色があった。この流派は現在日本の古式泳法で最も有名である。承昭は安政六年(一八五九)に藩主となり、文久二年(一八六二)に流派協同武芸の修行をするよう特に命じている。したがってこの時期に藩の泳法も確立し、それは藩主の流派に則った小堀流と考えられる。津軽藩踏水会の会旗は津軽家の定紋の牡丹(ぼたん)である。
写真315 津軽藩踏水会