テストNo.1 カナダ遠征1930第6戦

昭和5年(1930)9月24日 ブロクトン・ポイント

日本代表 3-3 カナダBC州代表

日本初のテストマッチは引き分け

No.6★1 第1回カナダ遠征第6戦
1930年9月24日 G:ブロクトン・ポイント R:ハリー・ロード KO 15:00
日本代表 3 3 カナダBC州代表
1 岩下 秀三郎(慶大OB) 3 0 1 ゴッドフリー・ウェンマン
2 矢飼 督之(慶大) 0 3 2 ジョージ・ワーノック
3 太田 義一(早大) 3 ウィリアム・ポーチェース
4 三島(足立)実(京大) 1 T 0 4 ブルース・レディンガム
5 知葉 友雄(明大OB) 0 G 0 5 ボブ・ノーミントン
C6 宮地(吉沢)秀雄(慶大OB) 0 PG 0 6 ボブ・マーレー
7 和田 志良(東大OB) 0 DG 0 7 キャンベル・フォーブス
8 清水 精三(慶大) 8 B.バレット
9 松原 健一(明大) 0 T 1 9 ジョージ・ニブロ
10 萩原(前川)丈夫(慶大OB) 0 G 0 C10 アーネスト・キャメロン
11 鳥羽(中島)善次郎(明大) 0 PG 0 11 アート・フェル
12 藤井  貢(慶大) 0 DG 0 12 ロバート・ゴウル
13 柯  子彰(早大) 13 アーネスト・.ビンカム
14 北野 孟郎(慶大) 14 P.バレット
15 寺村 誠一(東大OB) 15 ライト
交代【日】鈴木秀丸(法大)⑪ [カナダBCティレット監督の要請で鳥羽に変わり鈴木が特例として交代出場した]
得点:T北野

 日本初のテストマッチとなったこの試合[昭和51年に日本協会が認定]では、試合内容より交替出場のエピソードが語り継がれてきた。後述する岩下さんの記事で、鈴木さんがスパイクをどうしたのかという疑問が解け、私も長年の胸のつかえが取れた感じがした。

 監督を務めた香山蕃の著書『ラグビーフットボール』P428には、9月1日の初戦のバンクーバー戦について詳しく述べられているが、「紙数の都合によって後の記事を省きましたが……(後略)」と、この試合の内容に触れられていない。

 遠征メンバーの岩下秀三郎が『協会50年史・別冊』P128-129に「画期的なカナダ遠征」と題して寄稿した記事の中に、得点経過と有名な鈴木秀丸氏の交替出場[当時ルールでは認められていなかった]について述べている。

「(前略)この日の観衆は6千人といわれた。これだけの観衆は当時のカナダでは珍しいことだといわれる[前記香山氏の著書P418に『既にスタンドは立錐の餘地もない程人で埋まってゐた』とある]。BC州代表との試合では開始早々、猛タックルをした鳥羽君が肩を脱臼して退場する不幸な出来事が起こった。若し14人でそのまま試合を続行したらおそらく大敗を喫していたかもしれない。カナダは前回[この遠征での5試合]何れの試合も苦杯をなめている。従ってこの一戦こそはと興廃をかけていたようであった。ところが鳥羽君の退場直後、カナダ側は鳥羽君のマークであるウイングTB一人をはずして14人で対戦していた。これに気づいた香山監督は『そんなことをされては困る』といって15人にするよう強く要請した。しかしティレット氏[BCユニオン会長]は頑として聞き入れず、『それでは日本側で1人補充するように……』ということであった。このような押問答が幾度かくり返されたが、らちがあかず、香山氏は遂に我を折ってティレット氏に従ったのである。突如として補欠出場を申し渡された鈴木君はユニフォームや靴などの用意をしているはずがない。やむなく鳥羽君の靴をはいて出場。大きな靴で、試合が終わるまで、苦労したということであった。

 得点経過[当時は35分ハーフ]前半、日本は相手25ヤード辺でタッチを繰り返すうち23分ボールを得て荻原、松原、藤井と渡り右WTB北野快走してトライ。荻原のゴールならず(日3−0カ)。後半、一進一退するうち15分カナダは味方TBのパントからライトよく受けて突進。直ちにFWパスとなりウェンメンよく切り抜けてゴール直下にトライ。ニブロのゴールは比較的容易な場所にも拘らず不成功に終って日本軍は救われた」。