キャップの制度はラグビー発祥の地英国で、中世に学問に功績のあった人にキャップを贈ったのが始まりとされる。ラグビー界ではRFU(
イングランドラグビー協会)が創立された明治4年(1871)に、最初のインターナショナルマッチ、
イングランド対
スコットランドの試合に協会がキャップを贈呈して以来、今日まで続けられている。
日本ではラグビールーツ校の慶応が、明治時代末期に2年連続して対抗戦に出場した選手に、卒業時にキャップを贈っていたことが知られている。
日本協会は昭和57年(1982)12月17日、
日本を代表してテストマッチに出場した選手に、キャップを贈って表彰する「キャップ表彰制度」の採用を決定した。翌年昭和58年(1983)1月16日、第20回
日本選手権の翌日に、都内のホテルで「キャップ授与式」を行い、254人の対象者がその栄に浴した。
日本協会は過去にさかのぼって「キャップ対象試合」[テストマッチのこと]を認定した。テストマッチと認定された試合は、昭和5年(1930)9月24日の
カナダ遠征第6戦
カナダBC州代表戦から、昭和57年(1982)11月27日の第8回アジア大会決勝
韓国戦までの77試合であった。
世界各国とも、それぞれの基準で自国のテストマッチを認定している。
日本では、対戦相手がその国の協会代表チームかそれに準ずるもの、アジア大会では決勝戦などをテストマッチと認定した。
日本代表として海外遠征に選ばれてもキャップはもらえず、テストマッチに出場して、初めてキャッププレーヤーとなる厳しい条件である。
その時代時代で
日本代表に選ばれた選手が、出場した試合がキャップ対象試合と認定されなかったために、ノン・キャッププレーヤー[
日本代表に選ばれ試合に出場しても、テストマッチに出場していない選手]にとどまった選手も多い。
昭和5年(1930)、
日本ラグビー界最大の事業であった
カナダ遠征に選ばれた選手が、第6戦[後年テストマッチに認定された試合]に出場しなかっただけで、キャッププレーヤーに認定されなかったことに、私は強い違和感を感じていた。第1戦に出場した選手が、
日本を代表してどんな高揚感、責任感をもって戦ったのか、その心境が痛いほどわかるからだ。メンバーを決めた香山蕃監督ですら、後年どの試合がテストマッチに認定されるかなど、遠征当時は考えもしなかっただろう。
私はキャップ認定時に、『これまで
日本代表として外国チームと対戦した試合は、すべてテストマッチと認定し、これ以降は各年度ごとにキャップ対象試合を事前に発表する』とすればよかったと思っている。
本書では、
日本ラグビーの強化・発展に貢献してくれた543人[平成23年(2011)3月31日現在]のキャッププレーヤーのほか、107人のノンキャップフレーヤーを取り上げて、その功績を記録に残す。
昭和58年(1983)、盛大に行われたキャップ授与式。多くのキャップホルダーが集まり、時代別に3組に分かれ、記念撮影が行われた