1 戦前から昭和35年(1960)度まで

 
戦前
 日本代表が初めて編成されたのは、昭和5年(1930)9月のカナダ遠征である。監督に選任されたのが、日本ラグビー育ての親といわれる香山蕃氏であった。香山氏は東大在学中にラグビー部を創部、当時から英国の文献を集めてラグビーを研究、大正12年(1923)3月卒業直後の大正13年(1924)に改造社から『ラグビー』を出版している。
「大正14年(1925)5月秩父宮殿下に同行して英国に留学、名門ハレクインクラブに入って本場のラグビーを体験した。15年8月に帰国後、この年に創立された日本ラグビー蹴球協会の理事に就任、併せて京都帝大[現京都大学]のコーチに就任して、英国流のエイトFWによって、セブンの慶大を倒して日本一のチームに育てた。この自信に満ちた時代に、二番目の著書『ラグビーフットボール』が昭和5年(1930)に目黒書店から出版されたのである」(『香山蕃著「ラグビーフットボール」復刻本発行の意義』池口康雄)。毎日新聞の敏腕記者だった東大OBの池口さんが、昭和56年(1981)10月にベースボール・マガジン社から復刻版出版の際に、その意義を記した8ページのパンフレットから抜粋した。
 香山氏は、復刻本のP405に「日本も今日では愈々海外進出を眼の当りに見るようになりました。今度幸か不幸か我国最初の海外代表遠征軍に監督と言う嫌な名称の許に加奈陀へ行ったのであります。(中略)向うに居る時は加奈陀のチームから記述上の点に就いて、余り得るところがなかったように考えましたが、帰って東京に於ける歓迎試合、大阪に於ける歓迎試合に於いて、加奈陀に行った選手と行かなかった選手とのプレーに非常な差のあることを発見しました」と記している。前段の“監督という嫌な名称”というくだりは、いまの人にはまったく理解できないだろうが、アマチュアを信奉してやまなかった時代には、“プレーするのは選手であり、コーチすることはアマチュアとして行きすぎである”という考えによるものだ。後者のくだりは、外国の選手との試合経験を積むことで、選手個々のプレーが上達したことへの驚きを示している。
 香山氏が監督に選出された経緯は記されていないが、実績、統率力、理論において他の追従を許さなかったのであろう。
 日本協会が設立されて、東西対抗など選手選出の形がやっと整った昭和5年(1930)に、カナダ遠征で好成績を収めた香山氏は、コーチとして最高レベルの評価をされるべきである。
 これ以後、戦前ではカナダ代表豪州学生選抜NZ大学選抜を迎えて、計7試合のテストマッチを行っている。前述のようにコーチすることがプロ的と思われている時代に、香山蕃監督、北島忠治監督は、当時の外国チームと互角に渡り合う立派な成績を収めている。
戦後
 戦後の日本ラグビーは、昭和27年(1952)9月、オックスフォード大学との対戦から始まった。日本も戦後の混乱期を乗り越え、三地域協会の代表チームが競い合うなど、英国並みの形ができていたが、日本代表は2試合のテストマッチに0−35、0−52で完敗した。高校2年生だった私は、オ大の妙技に酔いつつも、子供のようにあしらわれる日本代表に地団駄を踏む思いだった。第1戦で全早大が8−11という熱戦をしたのを見ただけに、理解できない思いがした。日本代表の監督は、昭和30年(1955)度まで日本協会理事として活躍、『機関誌』にもラグビー理論に舌鋒を振るった奥村竹之助(大正15年京大卒)氏。フェアプレーとアマチュア精神の大切さを強く訴えた人だ。私はこの理念の重要性を全面的に肯定している。しかしそれを前提としたうえで、チームに、選手に、“いかに戦うか”を示すのがコーチの役割だと思っているので、同氏が『オ大戦プログラム』に「試合にのぞみて」と書いた文中の“遠くから師を迎える”のくだりに疑問を感じた。これでは白旗を掲げて戦うようなものだと思ったからだ。全早大を率いた大西監督の文章と比較してみた。
「オ大に接して、まず第一に体得してもらいたいのはアマチュアスピリットである。タックル、パス、セービング、スクラムワークなど諸君自ら経験して、自ら学ぶより致し方なく、そこに遠くから師を迎える意義がある。だから私は二つの全日本の試合に於いてもとより、実力本位でいくが、なるべく多くの学校から多くの人を、出来るだけ若い人々に出てもらって全日本軍を編成し、現在のありったけの力を尽くしてぶつかって見たいと思う」(全日本チーム監督、奥村竹之助)。
「私はこのゲームにおいて、我々が今まで創り上げてきた伝統の精神と戦法と技術とを存分に駆使して見たい。そしてそれが世界一流のオックスフォードチームに対して、いかに戦えるかという試練によって、今後の我々の目標と研究課題が見出されるであろう。『教えてもらう積もりでゲームをやれ』という人もある。しかし私は、人間としてあくまで対等にしかも謙虚に、最後のホイッスルまで必勝を信じつつ、立派にラグビーマンらしくゲームを終わりたいと考えている」(全早大監督、大西鐵之祐)。
 翌昭和28年(1953)9月にケンブリッジ大学を迎えた日本代表は、再び奥村竹之助氏を監督に立てたが、11−34、6−35で敗れている。
 昭和31-34年(1956-59)度に、日本代表豪州学生選抜3試合(北島忠治監督)、NZオールブラックスコルツ3試合(西野網三監督)、カナダBC州代表2試合(知葉友雄監督)、オ・ケ大学連合2試合(和田政雄監督)と、10試合のテストマッチを行っている。
 対戦相手の強弱によって評価が変わることは当然だが、カナダBC州代表と引き分けただけで1分9敗の成績に終わっている。当時一選手だった私から見ても、一貫性のあるコーチングがなく、監督が名誉職のように替わっていた感じがする。監督としても準備期間がなく、チームを預けられてもやりようがなかったのかもしれない。
 北島監督は3敗したが、いずれも善戦しているのは立派で、親分の風格を見せている。知葉監督には関東代表でご指導いただいた経験があるが、早大のメンバーが多いバックスがワイドに展開したとき、「ゴールラインは向こうだ! 真っすぐ走れ!」と怒られたことがある。