2 昭和36-45年(1961-70)度

 
 この時代は、昭和38年(1963)度、戦後初のカナダ遠征から始まった。カナダ遠征ではキャプテンシー[キャプテンがチームを統率するリード力]を認知させるために、監督を置かず主将が監督を代行したと聞いている。選手が何でも言いあえる兄貴として、青井達也主将兼監督がカナダBC州代表とのテストを含め4勝1敗の好結果を示して気を吐いた。
 日本協会は、日本代表の組織的強化を目指して、昭和40年(1965)7月20日から24日まで、日本代表候補(社会人41名、学生13名)を集め、自衛隊朝霞駐屯地で強化合宿を行った。ヘッドコーチ大西鐵之祐、コーチ北島忠治、川越藤一郎、和田政雄、岡仁詩、青井達也が、統一された指導方針のもとでナショナルチームづくりに動きだした。私はここが日本代表の本格的スタートだと思っている。
 この合宿の方針を大西技術委員長が「理論と実技の融合」と題して接近、展開、連続の理論を『機関誌』Vol.15-1(昭和40年10月22日発行)に発表している。
 
理論と実技の融合
技術委員長 大西鐵之祐
日本代表選手候補の強化を考えなければ外国チームを迎えた場合、本当に日本の真価を問うことはできないということは前々から考えられていたことである。協会技術委員会でたびたびこのことが議せられ、今年初めて実施の運びになり、小生にそのヘッドコーチをやれという相談を受けたのだが、何しろ重大な課題であるだけに慎重に考えた結果、もし小生の意見を聞いてもらえて全面的にそれでよいと言われるならお引き受けしようと返答しておいた。その後技術委員及びコーチに予定されている方々に小生の意見を聞いてもらい、全員賛同を得たので(種々細部については意見もあったが、次の国際試合を目標としての意見の統一として)選手強化の大役を引き受けたわけである。
 日本代表選手を強化する場合一番大切なことは、いかに外人チームと戦うかという考え方の統一である。今まで何回となく国際試合をやったが、全日本チームが単独チームよりいい選手を集めながら、いい成果をあげていないのは戦闘意識の統一ができないためであったと考える。今回合宿の目標が何であるかと聞かれるなら、この戦闘意識の統一とそれにともなう基礎技術の附与ということができるであろう。
 勝利は常に自己の強点を相手の弱点に集中攻撃することによって得られる。それなら日本のラグビー的強点とは何であろう。私はこれを次の点に要約している。①接近戦、②展開戦、③連続攻撃である。日本人は元来巧緻性にたけている。外人が長い槍を使うなら日本人は脇差で懐に入り、細かい技術で相手をかく乱しなければならない。それがでかい外人を倒す日本人に最も適した唯一の方法なのである。接近戦の根拠はここにある。展開戦は体格的に体力的に優勢な外人との正面戦を避けて、常にすみやかに展開し、その展開を連続的に行って、日本人の耐久力を充分に生かし、相手の強点を肩すかしし、自己の強点を充分に発揮して相手をふり廻す。かつてフランスチームが世界最強と豪語していたスプリングボックを南阿遠征して『風車のごとく展開して走り勝った』その戦法こそ身体の小さい日本人にあった戦法といえるのである(後略)」。

 昭和42年3月にNZ大学選抜(NZU)を迎えた。『機関誌』Vol.16-4、P45に「昭和42年(1967)1月18日、日本協会理事会は2月から3月にかけて来日するNZUを迎え撃つ日本代表監督に大西鐵之祐を、日本学生代表監督に岡仁詩を選考した」とある。結果は学生が15−63、日本代表が3−19と8−55と敗戦を喫した。これは一例だが、当時は試合直前に監督を決めていたのだ。
 大西技術委員長はこの敗因を分析し、日本代表(川越藤一郎監督)が対戦した豪州イースタンサバーブスとのノンテストマッチや、関西社会人との強化試合でチームを整備して、昭和43年(1968)5月~6月の第1回NZ遠征(5勝6敗)に監督として出発した。そしてオールブラックスジュニアを23−19で破り、世界をアッといわせる金星を挙げた。
NZ遠征でジュニアに勝つ
 遠征後、『機関誌/NZ遠征特別記念号』(昭和43年11月10日発行)に、大西監督は『技術的報告と将来の研究』を発表した。その中から「今後の研究課題」を抜粋した。
 
「今後の研究課題」
遠征チーム監督 大西鐵之祐
「全試合を通じての今後の技術的な研究課題を系統的に整理する時間的余裕がなかったので、感じたことを一つづつ羅列することを許して頂きたい。
1.三原則[接近、展開、連続のこと]は彼らに充分通じたし、今後も我々の方針として続けてよいだろう。併し、浅いラインからの攻撃接近、それに続くつなぎのプレヤーはFB、WTB、WFW[現在のFLのことを「ウィングフォワード」と呼んだこともある]、No8、SH、SOとなる。連続プレーを続ける限り、こうしたプレヤー[原文のまま、平成14年(2002)度まで日本協会はルールブックにプレヤーとしていた]の強化と連係動作を益々研究する必要がある。
2.浅いラインからの防御は、日本チームがこれを採用する時から、幾多の欠点が指摘されている。即ち第一線防御と第二線防御のギャップを如何にうめるか。今度の遠征でも再三ここを突かれて失敗しているし、特にオタゴ大学戦のカートンのような目の見える中心的プレヤーがいるときは必ずここを突いてくる。
3.NZのチャンスメーカーはSH、1FE、2FE、WFW、No8といえるであろう。特にSHのボールの投げ方(レイドロー式ロングパス)はSOの広い浅い位置と共に日本も根本的に攻撃[原文では攻撃となっているが研究の書き間違いと思われる。大西さんはSHレイドローのパス(現在使われているスクリューパスのこと)とSO(NZでは第1FE)の浅いポジショニングを研究しなきゃいかんと、帰国後常々言っておられた]する必要があろう。
4.セット[スクラムのこと]とラインアウトではボールを取ることが出来たが、モールとラックでは殆どボールは取れない。ボールは手渡しでハーフの前に落とされる。日本もダウンボールされた球を突っ込んで取り合いするという旧来の考え方を変えなくてはならないだろう。ラックにならなくともスクラムオフサイドラインが適用されるようになった。タックル後のボールにも突っ込みはしない。必ず球を拾って進むのではなく後ろを向いてモールを作る。まず、球を確実に味方ボールにする。モールの研究こそ今後の最大の課題といえる。
5.防御網の組織化とタックルの強化は、攻撃面の練習よりははるかに重要なことである。特にスクラムサイドとラインアウトのピールオフの防御は重点的に考えなければならない。防御網の組織化はチームの練習の強化により可能だとしても、タックルの強化は各個人の上半身及び腕力、握力の養成である。この点、適当な強化のための運動(バーベル)等を研究して実践させる必要がある。特にセレクションに当っては、タックルの強いことを第一に考える必要がある。
6.ボールを確実につかむこと。馬鹿みたいなことだが、彼等は雨が降ろうが、ボールに水がついていようが殆ど落とさない。また、落としたら、必ず相手に拾われるか、引っ掛けられて[相手の]チャンスとなる。これで何回もトライをとられた。この点、指導者もプレヤーも何らかの対策を考えなければならない。
7.キックとキャッチ、日本人のキックは重さも[高さもの書き違いと思われる]早さも距離も大抵一定している。もっと多様なキックの練習が必要である。また、彼等のキック・アンド・ラッシュの時のキックは全く高い。受ける時は必ず飛び込んでくる。日本選手の中でこうしたキックを蹴られた時、安心してみていられたのは萬谷一人だった。
8.外人の体当たりにどう対処するか。捨て身である。日本の選手もはじめは失敗を重ねた。そして遂に体得した。
9.プレースキックの専門的練習が必要であり、FBの任務として練習させる必要がある。大試合はGK、PGによって勝敗は分けられる。
 将来の遠征に行く人のために雑多のことを気付くままに書いたが、今後は技術委員会と今回の選手たちとの合同合宿を行って、現実にプレーした体験と研究をもとに日本ラグビーの将来のための研究を進め、逐次、結論を発表していきたいと思う」。

高校日本代表の遠征
 昭和45年(1970)度、第50回全国高校大会の記念行事として、日本協会は高校日本代表チームを編成して第1回カナダ遠征を実施した。団長金野滋、副団長高桑栄一、監督岡仁詩、総務八代浩、主将川崎俊正(目黒高)以下選手23名が、3勝2敗の成績を上げた。この遠征を機に、高校の代表候補選手を毎年夏に菅平へ集めてコーチングを行うことが定着し、日本のジュニア層への一貫指導が行われるようになった意義は大きい。高校代表メンバーから日本代表選手になった選手は実に129名(資料編『高校日本代表海外遠征』参照)を数えている。また今日まで40年間にわたるこのジュニア強化計画の実施からは、指導者として大成していった人も多い。平成22年1月の大学選手権で、帝京大を初優勝に導いて話題を集めた岩出雅之監督も、平成5年度にコーチ、7年度の第21回イングランド遠征の監督を務めている。