熱狂のイングランド戦
NZジュニアを倒した力は本物だった。昭和46年(1971)9月、イングランド代表を迎えた日本代表は、負けはしたが、花園で19−27、秩父宮で3−6のノートライゲーム。手に汗握る熱闘を演じて、日本中のラグビーファンを興奮の坩堝に叩き落とした。私もスタンドに入りきれないファンと一緒に、秩父宮のグラウンドに座り込んで観戦した、あの試合は生涯忘れられない。ラグビーのルーツ国イングランドの心胆を寒からしめた試合後、大西監督は『機関誌』Vol.21-2(昭和46年10月19日発行)にこう記している。
イングランドチームを迎えて
全日本監督 大西鐵之祐
「“日本ラグビーの浮沈は我々の双肩にかかっている。この光栄の認識に立って日本ラグビーの歴史的創造者となれ”。これが我々のモットーであった。50年間夢みてきた対イングランド試合に出場するという光栄、しかもこの一戦は日本ラグビーが国際的に第一級として認められるかどうかのときである。男として、ラガーメンとして、悔いなき一戦をやろうと先ず誓いあった。攻撃戦法は既にNZ遠征以来、技術委員会において検討を加え、接近、展開、連続の三種のほか、①先ず球をとること。②ゲインライン突破に多彩なプレーを敢行すること。③防御網を完備すること。④漸進的な攻撃を考えること。を加味して練習を重ね、今回の試合でそれが通じるかどうか実験することに決定されていた。
したがって攻撃は大胆不敵にやる、防御は組織を崩さず捨て身のタックルを敢行、特に相手のスクラムサイド攻撃には必ずゲインライン前でつぶす。しかし先ず球をとらねば攻撃は不可能、したがってFWは非常に危険性はあったが、真正面から対決して球をとることに専念せよと厳命した。FWの平均一人当たり体重13キロの差を考えれば、まことに苛酷な命令であり、一つの賭けであった。しかしこの試練にたえぬき、第一戦を接戦した自信は、第二戦の善戦への原動力となったのである。まことに幸運な実験であった。第二戦はもう何も言うことはなかった。それより疲労を回復し、緊張をときほぐすことに専念した。既に選手の意気は、第二戦には必ずやるという気持ちがひしひしと皮膚をつきやぶって感ぜられたからである。勿論細部の打ち合わせは慎重にやったけれども作戦の大綱は変えていない。
ただ今回のイングランドチームのやることが出来る作戦は、第一戦の経験によって次の4つであることがわかったので、その対応策は充分研究した。①スクラムサイド攻撃、特に二回くりかえし攻めてバックスに球を送る。②バックスはゲインラインを突破するためSHとSO、SOと1CTB、1CTBと2CTB或いはウイングとクロスして中に切れ込んできてモールをつくり再度攻撃。③キック・アンド・ラッシュ、特にハーフで前に蹴りモールをつくり出す。④キックで前進、ゴール前では体当たり戦法でトライを取る。
これらの対応策が充分できたことによって第二戦は相手をノートライに押えることが出来たといえるであろう。
今回の二度の国際試合については選手諸君にこれ以上を要求することはできない。この大試合にあれだけできたことに対し感謝するだけである。体力的についても技術的についても現在の実力の極限であろう。まさに悔いなき試合であった(後略)」。
全日本監督 大西鐵之祐
「“日本ラグビーの浮沈は我々の双肩にかかっている。この光栄の認識に立って日本ラグビーの歴史的創造者となれ”。これが我々のモットーであった。50年間夢みてきた対イングランド試合に出場するという光栄、しかもこの一戦は日本ラグビーが国際的に第一級として認められるかどうかのときである。男として、ラガーメンとして、悔いなき一戦をやろうと先ず誓いあった。攻撃戦法は既にNZ遠征以来、技術委員会において検討を加え、接近、展開、連続の三種のほか、①先ず球をとること。②ゲインライン突破に多彩なプレーを敢行すること。③防御網を完備すること。④漸進的な攻撃を考えること。を加味して練習を重ね、今回の試合でそれが通じるかどうか実験することに決定されていた。
したがって攻撃は大胆不敵にやる、防御は組織を崩さず捨て身のタックルを敢行、特に相手のスクラムサイド攻撃には必ずゲインライン前でつぶす。しかし先ず球をとらねば攻撃は不可能、したがってFWは非常に危険性はあったが、真正面から対決して球をとることに専念せよと厳命した。FWの平均一人当たり体重13キロの差を考えれば、まことに苛酷な命令であり、一つの賭けであった。しかしこの試練にたえぬき、第一戦を接戦した自信は、第二戦の善戦への原動力となったのである。まことに幸運な実験であった。第二戦はもう何も言うことはなかった。それより疲労を回復し、緊張をときほぐすことに専念した。既に選手の意気は、第二戦には必ずやるという気持ちがひしひしと皮膚をつきやぶって感ぜられたからである。勿論細部の打ち合わせは慎重にやったけれども作戦の大綱は変えていない。
ただ今回のイングランドチームのやることが出来る作戦は、第一戦の経験によって次の4つであることがわかったので、その対応策は充分研究した。①スクラムサイド攻撃、特に二回くりかえし攻めてバックスに球を送る。②バックスはゲインラインを突破するためSHとSO、SOと1CTB、1CTBと2CTB或いはウイングとクロスして中に切れ込んできてモールをつくり再度攻撃。③キック・アンド・ラッシュ、特にハーフで前に蹴りモールをつくり出す。④キックで前進、ゴール前では体当たり戦法でトライを取る。
これらの対応策が充分できたことによって第二戦は相手をノートライに押えることが出来たといえるであろう。
今回の二度の国際試合については選手諸君にこれ以上を要求することはできない。この大試合にあれだけできたことに対し感謝するだけである。体力的についても技術的についても現在の実力の極限であろう。まさに悔いなき試合であった(後略)」。
英仏遠征と第2回NZ遠征
昭和47年(1972)度、日本代表監督は大西から岡仁詩にバトンが託された。岡監督は4月に豪州コルツを迎えた2試合のテストを24−22、17−17の1勝1分とし、11月の第3回アジア大会で香港を16−0で下し3連覇と好スタートを切った。
次の目標は48年10月、日本代表初の英仏遠征である。ここで不幸な出来事が起こった。同大の選手が事故死するアクシデントにより岡監督が辞退、横井久が監督を務めた。ウエールズ、イングランドU23、フランスと3つのテストマッチに14−62、10−19、18−30と敗れはしたが、試合内容に対する評価は高く、各地で歓待され遠征は成功した。昭和49年(1974)、日本代表監督に斎藤尞が就任、第2回のNZ遠征でテストマッチ1勝2敗、初めてNZ大学選抜を24−21で破った。
1970年前半はミスマッチ1)が2試合[14−62ウエールズ代表、23−70カンタベリー・リンカーン大学]だったが、昭和50年(1975)豪州遠征で1試合[20−97NSW2)カントリー]と同年ウエールズ代表来日の1試合[6−82]、昭和51年(1976年)英伊遠征で2試合[10−62グロスターシャー州代表、9−63ウエールズクラブ連合]、昭和52年(1977)来日のスコットランド代表に9−74、昭和55年(1980)のフランス遠征で1試合[3−57フランス選抜]とこの10年間に8試合ものミスマッチを犯して、日本代表の評価を落としてしまった。豪州、イングランド、ウエールズ、スコットランド、フランスなど、強豪国の代表チームとの実力差は如何ともしがたい場合もあるが、この例のようにテストマッチ以外のチームとのミスマッチは絶対に許されないことだ。
この時代は世界の列強相手に国際試合が目白押しになった。日本が世界に認められ、各国が日本と積極的な交流を求めてくれた。日本にとってうれしい、願ってもないチャンスの到来といえたが、現実は甘くない。日本代表監督が大西体制から、若手の交代制に切り替わって一貫指導体制が崩れた。世界にチャレンジするには、カリスマ性のある優れた指導者と、それを全面的にサポートする体制が必要だ。昭和40年代の成功は、大西体制を打ち立てて、それを全面的にサポートした日本協会の成功だったと思っている。
NZジュニアに勝ち、イングランドと互角に戦えたことで世界を甘く見たのか、大西体制を若手に切り替えたことが早すぎたのではないか。アマチュアを遵守した日本は、コーチに専従者を立てられず、過密スケジュールをこなすために、監督をリレー式に代えざるを得なかった。選手は社業とラグビーさらに家庭と、三者の狭間でスケジュールの過密さに苦しみ、精神的にも肉体的にも全力投球することが難しくなった。アマチュアだからと、激しいレベルの試合を数こなすことにも欠けていた。選手も指導者も一生懸命頑張っているのに成果が上がらず、業績が右肩下がりになっていった。この時期は日本協会が、好況時に振り出した手形を落とすのに精いっぱいだったような気がする。
1) 試合をする価値がない対戦を外国ではこう表現する。私は8トライ8ゴール差以上の試合、トライ3点時代は40点、4点時代は48点、5点時代は56点差以上と定義している。
2) New South Wales。オーストラリア連邦を構成する6つの州のひとつ。州都はシドニー。愛称のワラターは州花でもある。