4 昭和56-平成2年(1981-90)度

 
 1980年代は私が監督に就任したカナダ戦の連勝から始まった。昭和57年(1982)5月の第3回NZ遠征では、NZ大学選抜とのテストに連敗したが、10試合を通じて最多失点差がNZ大学選抜の6−22と16点差という失点の少ないチームができた。来日したイングランド大学選抜に0−43で完敗した大失敗があったが、昭和58年(1983)10月のウエールズ遠征が評価された。日本代表が敵地カーディフで、ウエールズ代表をあと一歩まで追いつめた24−29の接戦は、試合内容が素晴らしかった。自画自賛で申し訳ないが、日本が海外の一流チームに勝つ可能性が見えた試合だ。ビデオでぜひご観戦をお勧めしたい。
 ウエールズ遠征から帰国した私は早大の監督に就任したため、岡仁詩監督に交代した。昭和60年(1985)10月、岡監督のフランス遠征は6試合中2試合のミスマッチがあり失敗した。
 昭和61年(1986)度、日本代表は5~6月に宮地克実監督でアメリカカナダ遠征、9~10月岡監督でイングランドスコットランド遠征を実施した。昭和62年(1987)5月、宮地監督で第1回RWCの舞台[日本の試合会場は豪州シドニーとブリスベン]へ乗り込んだ。緒戦のアメリカ戦は18−21、ゴールキックの差で負けたが勝てた試合だ。無念の一言である。
 昭和62年(1987)7月、英国留学から帰国した私に再度日本代表監督への指名があった。私はメンバーを一新してスタートしたが、10月に来日した世界一のオールブラックスに0−74、4−106と屈辱的大敗を喫した。世界一になっても日本代表に対し、ベストメンバーを替えないNZに、改めてテストマッチとはこういうものだと強烈に教えられた。
 監督としてミスを犯し続けた私は、昭和63年(1988)11月、第11回アジア大会(香港)決勝で韓国に13−17で敗れて辞任した。私の持論だが、すべての条件に恵まれている日本が、韓国に負けることは絶対に許されないと思ったからだ。バトンを託した白井善三郎新強化委員長が、宿沢広朗を監督に推挙し、私が住友銀行に出向いて快諾を得た。平成1年(1989)5月に宿沢監督率いる日本代表が、スコットランド代表を28−24で破る大金星を挙げた。平成2年(1990)4月、宿沢ジャパンは韓国トンガに勝って第2回RWCへの出場を決め、この時代を締めくくった。
 1981-90年代では日本代表のテストマッチが39試合行われている。
 監督を斎藤尞1試合、日比野弘16試合、山本巌1試合、宮地克実10試合、岡仁詩4試合、宿沢広朗7試合が分担して務めた。
 アマチュア時代とはいえ、選手は監督がめまぐるしく変わるので戸惑っていたのではないか。やむを得ない理由があったにせよ、これでは成績や敗因の分析ができない。成果を挙げられずに、2度も代表監督を辞任した私には大きな責任がある。