女子ラグビーの歩み

 
 日本における女子ラグビーの発足は、昭和58年(1983)である。組織作りの中心になって活動してきたのは岸田則子(現日本協会女子部門長)さんだ。昭和59年(1984)に女子の初試合が行われている。昭和63年(1988)4月に「日本女子ラグビーフットボール連盟」が発足して活動してきた。当初日本協会には「女性がラグビーをやらなくても……」と参加を歓迎しない空気があったことは事実である。しかし徐々に「日本協会も認めて支援・協力すべし」との声が強くなり、IRBの要望にも応え、平成5年(1993)9月1日に、日本協会は女子ラグビー連盟を関連団体として承認した。その後約10年を経て、女子ラグビー連盟は、平成14年(2002年)4月1日に、女子ラグビーの国際的発展に備えて「日本ラグビーフットボール協会」に参画し、「女子ラグビー部門」として日本協会と一体になって、本格的な強化・普及活動に取り組むことになった。
『女子ラグビー15年の歴史』(日本女子ラグビーフットボール連盟、平成15年(2003)11月23日)の巻頭文から、女子ラグビーの発足のくだりを抜粋引用する。
日本国内での女子ラグビーの始まりは、今を遡ること20年前、1983年のことになる。それ以前にも大阪や東北で、ラグビースクールに子供を通わせているお母さん達が、一緒にプレーしていたことは、事実として伝え聞いているが、女性達が本格的にスポーツ競技としてのラグビーを始めたのは1983年で、東京、名古屋、松阪で、ほぼ同時にチームが誕生している。
 世界の女子チームの誕生と比較してみると、1965年にフランスでチームが誕生したのが最初で、1970年代にはかなりの国、例えはイングランドアメリカカナダ等でチームが活動を始めていた。東京について話をすると世田谷区が主催した『ラグビー初心者講習会』の募集要項に『男女不問』とあったために、女性7名が応募したことから始まっている[岸田さんが6人誘ったことを後日確認した]。それがラグビー誌[ラグビーマガジン]に掲載され、またTVに取材され……ということで、またたくまに人数が増えてチームとしての形を成すことになった。初めて女性同士の試合が行われたのは、翌年(1984年)のことで、世田谷レディースが遠征をし、ブラザー工業レディース(現名古屋レディース・ブラザー工業ハンドボール部の選手が中心)と松阪レディースと対戦した。
 それから4年を経て、さまざまな紆余曲折を潜り抜け、1988年4月に『日本女子ラグビーフットボール連盟』は誕生した。当時の理事は世田谷レディースに在籍していた岸田則子、川口敬子、大嶋栄、増岡文子の4名で、まず最初に総会の開催に着手した」。
 まだ「女子がラグビーやるなんて」と眉をひそめる関係者も多かった時代に、道を切り拓いてきた先覚者のご苦労に、改めて敬意と感謝の意を表したい。女子ラグビーの歴史はこうして築かれてきた。
 女子ラグビー誕生以前の昭和47年(1972年)の『機関誌』(Vol.17-6号P46)に、仲谷武夫氏(大阪・登美丘高教員)の投稿が載っていた。女子生徒がラグビーを楽しんでいる写真に添えて「母親予備軍である女生徒にラグビーを教え、その良さ、面白さを掴ませることは、とりもなおさず将来のラグビー人口を増加させるものと確信し、協会におかれてもその点考慮され『女性のためのラグビー教室』など開かれて普及に努められれば、将来世界の強豪に肩を並べ得る日本チームを生み出すのではないでしょうかと『素人の考え』を持っていますが如何なものでしょうか」とあった。先見の明に頭が下がる。