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概要
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放牛地蔵尊には『他力四拾体目 享保十三戌申暦 熊本願主放牛 二月吉日』と刻んであるように40体目のもので、建立時期は享保十三年二月(1728年3月頃)です。光背上部には「これより みぎ わいふ ひだり きの 」という文字が刻まれ道標ともなっています。(「わいふ」は「菊池市隈府」、「きの」は「菊鹿町木野」)「放牛地蔵」建立の由来は以下の通りで泗水町誌に詳しく書かれています。
『昔肥後藩士に大矢野源兵衛という人があった。細川藩に出勤の途中、金屋町を通行の際 、商家の戸口から1本の薪をポイと投げ出したものがあり、それが運悪く源兵衛の頭に当たって鮮血がたらたらと流れ落ち、源兵衛の着ていた正装の上下を汚してしまった。この体たらくでは出勤ができないし、また不慮の怪我は侍の落ち度として罰則があったから、源兵衛は商家に踏み込んで薪を投げた男を出せと怒った。 投げたのは、この家の親父、七左衛門であった。倅が酒を買いに行かないのを叱って薪を投げたものが表まで飛んで源兵衛に当たったのである。親父は詫びる言葉もなく奥深く逃げ込んだ。倅が大地にひれ伏して源兵衛に詫びたので、「親父をここに出して謝罪すれば許す」と言うと恐る恐る親父が出て首を差しのべて謝罪した。すると、源兵衛はすかさず親父を一刀両断にし立ち去った。倅は仰天して一時正気を失ったが、侍は影も形もなく、親父の骸のみ戸口に横たわっていた。そのころの侍の威勢は一商店の倅が抵抗する術もなく、泣く泣く野辺送りを済まし、世の中は無理解なるものである以上、侍の圧迫を逃れようと覚悟し京町の往生院の和尚に帰依して名も放牛と号した。この時、野に放たれし牛の気安さという和歌を一首詠じている。その後、惨殺された父の菩提を弔うため熊本内に10年間に100体の地蔵尊を安置する念願を起こし、錫杖を曳いて四方に行脚し浄財を頼って、ただひたすら地蔵尊を建立し続けたという。』
他の資料では法師は享保7年(5月)「放牛」地蔵百体建立を発願、以来建立を続け享保17年(1732年)、出町往生院に百体目を建立し大願を成就したとあります。また、放牛地蔵には、様々な和歌が詠まれていますが、次のような代表歌があります。 三界の衆生を乗せる放れ牛 仏詣りの人をみちびく
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