概要
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12代菊池武時の嫡男。「袖ヶ浦の別れ」(1333年)後、武時の死で家督を継ぐ。父武時の忠義に対し後醍醐天皇より肥後守として正式に認められる。1338年、一族の結集をより強固にするため、「よりあひしゅないたんのこと」(菊池家憲)により、重要事項の決定以外は一族の合議制によることや、宗家と庶家の関係を明確にすることなどを定めた。 箱根竹ノ下の戦いにおいて、短刀や小刀を竹の長柄に取り付けて槍とし、1000の兵で3000の兵を破ったとされる「菊池千本槍」を考案したとされる。また、鳳木山聖護寺を開いた大智禅師(だいちぜんし)を招く。仏門に入ってからは寂山と号した。 菊池神社の主祭神の一柱であり、墓所は亘、菊池五山の一つ輪足山東福寺の当時「歓喜院」。亀趺の墓で、15代武光の墓を模して1816年(文化13年)に建てられた。
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