北茨城市は、1953年(昭和28)町村合併促進法公布により、1955年(昭和30)には磯原町と華川村が合併し磯原町となり、翌1956年(昭和31年3月31日)に南中郷村、磯原町、関南村、大津町、平潟町、関本村の6か町村が合併し、県下15番目の市として誕生しました。茨城県の最北端に位置し、南は高萩市、北は福島県いわき市、西は福島県東白河郡塙町、鮫川村と接しています。
主要な交通幹線は、首都圏と東北地方を結ぶJR常磐線、国道6号、常磐自動車道が整備され、市内には、JR常磐線の南中郷駅、磯原駅、大津港駅の3駅と常磐自動車道の北茨城インターチェンジを有し交通の要となっています。
また、市の総面積の約32%は山林で、東部は低地で海岸に面し、市内を流れる大北川、花園川、里根川などの流域には、豊かな平坦地がひらけています。古くから農業や漁業を中心に栄えましたが、江戸後期に石炭が発見され、常磐炭田の中核として活況を呈し、今日では工業地帯として伸展を見せています。また、自然豊かで風光明媚な海岸線や渓谷美など観光の名所となっています。
1882年(明治15)多賀郡磯原村(現・北茨城市磯原町)に生まれる。地元の高等小学校を卒業後東京専門学校(現・早稲田大学)中退。『船頭小唄』『波浮の港』をはじめ地方民謡も数多つくり、主として作曲の中山晋平、本居長世、藤井清水と組み、大正末から昭和初頭にかけて民謡詩人として人気を得る。児童雑誌『金の船』『金の星』を中心に童謡をつくり、本居長世・中山晋平の曲で北原白秋・西城八十と並んで童謡運動の中心として活躍した。『七つの子』『あの町この町』『証城寺の狸囃子』『兎のダンス』など今日でも国民的童謡として人気がある。
多賀郡平潟町(現・北茨城市平潟町※大津町説)に生まれる。生家は水産業を営む鉄家。大津小学校低学年ごろまで在学し、日露戦争後、一家とともに東京に移住。1916年(大正5)東京音楽学校(現・東京芸術大学)に学ぶ。小学校の教壇に立ちながら、イタリアのテノール歌手サルコリのもとでベルカント唱法を学んだ。1922年(大正11)声楽の勉強のためイタリアに留学。その間アントニオ・ベルトラメリと結婚。1930年(昭和5)、アントニオと死別し、翌年日本に帰国。その後鎌倉に居住しベルカント研究所を開いて子弟の養成に努めた。1973年(昭和48)、国立音楽大学の教授として後進の養成に努めた。
2024.03.22
北茨城市デジタルアーカイブを公開しました。
「北茨城市デジタルアーカイブ」は公益財団法人図書館振興財団の2022年度提案型助成を受けて実施しています。