都城市/みやこのじょうデジタルアーカイブ

都城島津家

 都城島津氏は南北朝時代から廃藩置県まで、ほぼ一貫して都城地域の領主として存続しました。それは、14世紀中頃、島津氏4代忠宗の子資忠が、足利氏から現在の都城市北西端部に位置する北郷の地三百町を与えられて分家したのに始まります。資忠の系統は分家後、地名から名字を北郷と名乗るようになりました。その後、16世紀中頃に8代北郷忠相が都城盆地を統一し、10代時久の時代に最大の領域を誇りました。寛文3年(1662)になると、北郷氏は藩から名字を島津へ戻すようにと指示され、「都城島津家」が新たに創出されました。ここに至って、都城島津家は、改めて近世大名島津家の一員として位置付けられました。
 江戸時代の鹿児島藩は、藩領内を113の外城・私領に分け、そこに地頭あるいは領主を配置して治めさせる外城制度を採用していました。都城は私領に位置付けられて、都城島津氏は大名島津氏から、領主として都城の支配を任され、領主館を拠点に領内を治めました。
 版籍奉還、廃藩置県後、都城島津氏は領主館を朝廷に返上し、現在の都城島津邸の場所に居所を構えました。


北郷久直像

15代 北郷久直(ほんごうひさなお)

鹿児島藩主島津家久の3男。母は島津忠清の娘。初め忠直(ただなお)と称していました。

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寛永8年(1631)江戸において元服、将軍徳川家光に拝謁したといいます。垂水島津家の養子となっていましたが、寛永11年(1634)、北郷忠亮(ただすけ)の死去により、忠能(ただよし)の娘春嶺(しゅんれい)を妻とし、北郷家を継ぎました。同年10月、久直が都城に入部する時、都城に藩から「惣奉行(そうぶぎょう)」・「上置(うわおき)」が設置されています。「上置」は、鹿児島と都城の取次及び都城領主の後見役、都城領政の監視役でした。

久直は鹿児島藩主である兄光久と協力して領内統治に努め、寛永15年(1638)、兄光久が江戸に赴いた時は、命によって藩の政務を執り行ったといいます。武術に秀で、剣術は示現流を、弓術は日置流を学び奥義を極めています。寛永18年(1641)11月、病により鹿児島にて死去しました。

享年25歳。法号を廓安了聖庵主。墓所は龍峯寺跡(りゅうほうじあと)(都城市都島町)。

北郷久定像

16代 北郷久定(ほんごうひささだ)

鹿児島藩主島津光久の次男。母は松澤家次の娘。初め久統、又作と称しました。

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明暦2年(1656)、北郷家を継いだ兄久直が25歳の若さで早世したことにより、島津本家の命令で久直の娘千代松と結婚し同家に入り、家督を相続しました。久定が家督を継ぐまで15年の空白があります。この期間は久直夫人で、12代北郷忠能の娘の春嶺が中心になって領内の統治が行われていました。

寛文元年(1661)に鹿児島に滑川邸(なめかわてい)(鹿児島市清水町・稲荷町付近)を建設、また都城においては東西北の3口に番所を置き、領内整備に努めたといいます。寛文2年(1662)、都城において死去。享年19歳。法号を松月院殿天心法高居士。墓所は龍峯寺跡(りゅうほうじあと)(都城市都島町)。

島津久理像

18代 島津久理(しまづひさみち)

鹿児島藩主島津光久の8男。母は玉利喜右衛門の娘。初めは忠顕(ただあき)、忠智と称しました。

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兄忠長(ただなが)が就任7年で死去し、彼に子どもがいなかったことにより、寛文11年(1671)、都城島津家に入り家督を相続しました。家督相続時は若年のため、しばらく藩の家老も務めた島津久元や島津久馮が後見したといいます。

延宝3年(1675)12月、都城・飫肥との山境争論が起き、伊東家飫肥藩、さらに幕府を巻き込んでの訴訟となりました。この時は飫肥藩側の主張が認められ、島津家は敗訴しています。

延宝6年(1678)に武具甲冑の新調または修理を行い軍備増強に努め、天和元年(1681)には、家臣の隊伍(兵士の組織)を定め組頭・小組頭等を置き、組掟を定める等、その後の領内統治の規範を築きました。元禄13年(1700)に隠居し、嫡男久龍に家督を譲りました。

享保12年(1727)正月28日に死去。享年71歳。法号を瑞峯院殿義雲玄道大居士。墓所は龍峯寺跡(りゅうほうじあと)(都城市都島町)。

島津久茂像

20代 島津久茂(しまづひさもち)

島津久龍(ひさたつ)の次男。母は前田時尚の娘。初め久珍と名乗りました。

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享保6年(1721)正月に兄久道(ひさみち)が早くに亡くなったことから、元文5年(1740)、父久龍(ひさたつ)の跡を受け、家督を継ぎました。

延享元年(1744)11月、藤崎是八を鹿児島に派遣し経書を学ばせ、後には京都に遊学させる等して、家臣の学問奨励、領内の殖産興業に力を注ぎました。また、池田貞記を京都の宇治に派遣して製茶法を学ばせ、宝暦7年(1752)に製茶1壺を桃園天皇に献上したといいます。

銃術にも秀で、稲留流や提要流を極めたほか、有職故実にも詳しく小笠原流の諸礼や要門流軍学を学んだと伝えられます。多趣味な当主で、隠居屋敷に多くの鳥や動物を飼っていました。

宝暦7年(1752)に隠居して嫡子久般(ひさとし)に家督を譲り、安永3年(1774)、都城で死去しました。享年64歳。法号を法雲院殿円山良覚大居士。墓所は龍峯寺跡(りゅうほうじあと)(都城市都島町)。

島津久般像

21代 島津久般(しまづひさとし)

島津久茂(ひさもち)の長男。母は二階堂行寧の娘。

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宝暦7年(1757)5月、父久茂が隠居したのに伴い家督を相続し、若年ながらも藩主の饗応や幕府巡見使の出迎え等領主としての役目を果たしました。

宝暦11年(1761)12月、鹿児島藩主島津重豪(しげひで)の拝謝使(はいしゃし)として将軍徳川家治(いえはる)に謁見しました。しかし、まもなく天然痘を患い江戸において死去、芝の大円寺に埋葬されました。

享年19歳。法号を高勝院殿泰心了道大居士。墓所は龍峯寺跡(りゅうほうじあと)(都城市都島町)。

島津久倫像

22代 島津久倫(しまづひさとも)

島津久茂(ひさもち)の2男。母は石坂氏章の娘。

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宝暦9年(1759)6月26日に生まれ、兄の21代久般(ひさとし)が就任4年目に19歳で早世したために、わずか3歳で家督を相続しました。

彼は都城島津家の中でも「明君」といわれる人物です。当時、度重なる災害等による飢饉によって、都城島津家では財政が悪化、また人々の風紀の乱れが目立つなど、領内秩序に緩みが見られるようになっていました。それに対処するために久倫は、8代北郷忠相を模範として数々の施策を実施しました。

まず、安永7年(1778)に後の学校「明道館(めいどうかん)」につながる「稽古所(けいこじょ)」を、安永9年(1780)7月には武道を学ぶ施設「講武館(こうぶかん)」を設置し、翌月には家臣に兵学を学ぶよう指示しました。続いて天明元年(1781)、領内をあげて実施する諏訪神社祭礼を復興し、寛政3年(1791)に大淀川の河川改修工事である観音瀬(かんのんぜ)の開削事業を実施しました。そして寛政10年(1798)9月3日、一大文化事業である『庄内地理志』の編さんを開始しました。このほか久倫は、寛政元年(1789)頃から、家臣を京都や江戸に留学させて人材育成にも努めました。

文政4年(1821)8月に亡くなりました。享年63歳。法号を泰光院殿功山義融大居士。墓所は龍峯寺跡(りゅうほうじあと)(都城市都島町)。

島津久統像

23代 島津久統(しまづひさのり)

島津久倫(ひさとも)の長男。母は島津久亮の娘。久統は安永10年(1781)年2月14日生まれで、文政2年(1819)に家督を継ぎました。

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家臣の学問・武芸鍛錬を奨励するだけでなく、前家老の安山松巌を大和河内(奈良県と大阪府の一部)や肥後(熊本県)に派遣し、養蚕業や綿栽培を取り入れ領内の殖産興業を図りました。また格式にとらわれず、有能な人物の登用に努め、大河原世則・志摩清右衛門・荒川儀一らを頼山陽や佐藤一斎といった当代一流の儒学者に入門させました。

『庄内地理志』は父久倫の代に開始され、久統が領主の時に一応の完成をみました。およそ30年の歳月をかけて作られた近世の都城島津家における一大文化事業であり、島津久倫と久統、そして実質担当者の荒川儀方が『庄内地理志』編さんを支えた人物でした。

久統は家督継承以前から『麑藩名勝考(げいはんめいしょうこう)』の著者である白尾国柱(しらおくにはしら)と親交があり、白尾の地位を利用して藩官庫の史料を久統自身で書写しています。また家臣志摩清右衛門を京都へ派遣して、漢学を田中大蔵に、さらに大河原世則を頼山陽の門下として学ばせています。このように、久倫・久統ともに家臣に対して学問、とくに儒学を奨励し、人材の育成に努めたのでした。こうした姿勢・思想が『庄内地理志』編さんの環境を整えていったといえます。

病を得て鹿児島にて死去。享年54歳。法号を仁量院殿智鑑達道大居士。墓所は龍峯寺跡(都城市都島町)。