高麗虎狩図屏風
『高麗虎狩図屏風』は、都城島津家伝来の史料のうち、書画を代表する作品です。作者名は記されていませんが、江戸時代初期に活躍した都城出身の絵師・永井慶竺(ながいけいじく)の作であると伝えられています。
天正20年(1592)4月、豊臣秀吉の命により朝鮮へ上陸した日本軍は、王都・漢城まで占領しましたが、その後朝鮮軍の反撃と明軍の救援により、休戦しました。慶長2年(1597)には再度出軍したものの、翌年8月に秀吉が死去したため撤退しました。これが文禄・慶長の役です。この戦いに、島津家は島津義弘・久保父子を将として出軍させましたが、太閤検地等の豊臣政策による混乱の中にあったため、「日本一の遅陣」を演じてしまうこととなりました。
この屏風は、文禄3年(1594)冬、秀吉の強い要望により虎狩実施の命が各大名へ発せられたことから、島津家が4月に昌原(チャンウォン)で行った虎狩の様子を描いたものです。
右隻は、ほぼ同幅で平行に3段の構図となっており、時系列にそって、朝鮮半島へ迫る船団、接岸後の島津家の陣営や山中に向かう人々が描かれています。

対して左隻では、中段と下段に虎狩、上段に捕獲後屋敷へ向かう様子が描かれています。

この屏風とほぼ同じ図様で絵巻物に仕立てられている作品が2件確認されています(九州国立博物館及び鹿児島県歴史・美術センター黎明館所蔵)。
屏風形式と巻子形式のどちらが先に成立したのかは不明ですが、人物の姿態表現の的確さや丁寧な描画法、描かれた鉄砲が全て薩摩筒の特徴を正確に示しているなど、写しにみられる絵のくずれが見られないことから、初発の作品である可能性が感じられます。