眼下に広がる広大な扇状地に、被葬者は何を想う…―地附山前方後円墳と上池ノ平古墳群

長野市教育委員会 学芸員
飯島 哲也

 善光寺さんの裏山ともいえる地附山に、地元の愛護会の皆様によりトレッキングコースが整備されました。防災メモリアル公園からのコース「つづらトレイル」ですと山頂まで約40分の山歩きを楽しむことができます。山頂には「いにしえトレイル」が設定されており、古墳や山城を見学することができます。山頂からは住宅地の広がる浅川扇状地を見下ろすことができ、なんとも雄大に気分にさせてくれます。

 1985(昭和60)年に発生した地附山の地すべり災害は、多くの尊い人命や貴重な家屋や財産を奪う大惨事となりました。この災害は同時に遺跡にも大きな傷跡を残すこととなり、その後の災害対策事業として、地附山山頂付近にあった上池ノ平1~5号古墳が消滅することになったのです。現状保存された6号古墳と、山頂にある全長約39mの地附山前方後円墳は今も残っていますが、消滅することになった1~5号古墳は、1986(昭和61)年にきわめて異例となる短期間での緊急発掘調査の後破壊されました。古墳の形はすべて直径およそ9~10mの円墳で、うち4・5号古墳は積石塚古墳のように拳くらいの大きさの石で覆われていたようですが、その他は墳丘を土で盛り上げた盛土墳です。

地附山前方後円墳

 1号古墳は直径約18m、高さ約2mの円墳で、溝を掘って尾根を切断し、旧地表面を削って墳丘をつくりだしています。埋葬施設としては3基の石棺が並らぶめずらしいものでした。中央の1号石室は、大きな平石を三角屋根のように合掌形にした、いわゆる「合掌形石室」であり、他の2石棺は平天井の箱形石棺でした。出土遺物は、過去の調査で2号石室から長さ85㎝の刀身が出土していますが、今回の調査では墳丘から出土した20片ほどの埴輪の破片だけでした。
2・3号古墳は、それぞれ直径約14m、10mの盛土円墳で、埋葬施設はどちらもはっきりしませんが、おそらく平天井の箱形石棺だったと考えられています。墳裾からは、多量の土器を遺棄・埋納したと考えられる土坑が見つかりました。5世紀後半ごろの、土師器と須恵器という種類の土器で、意図的に細かく破砕された痕跡や、整然と並べた後に一気に土をかぶせた痕跡が観察されました。いわゆる「墓前祭祀」とか「供献儀礼」などとよばれている古墳にまつわる儀式の痕跡と考えられています。
4・5号古墳は、比較的平坦部に立地している他の古墳とは異なり、斜面につくられています。それぞれ直径約9mほどの円墳で、拳くらいの大きさの石で覆われていました。5号墳の埋葬施設は天井が三角屋根形になる合掌形石室で、石室内からは鉄剣1、鉄鏃(矢じり)8、刀子(小さなナイフ)2、馬の口にはませる馬具の轡1が出土しました。

地附山上池ノ平1号墳石棺

 これらの古墳の築造年代は、山頂に位置する地附山前方後円墳が5世紀後半に築造され、つづいて1・6号古墳が、さらに2・3号古墳へとつづき、6世紀前半頃と考えられる4・5号古墳で終結するものと考えられます。古墳群の時期や特徴的な須恵器の存在などから、この古墳群が眼下に位置する浅川扇状地遺跡群(本村東沖遺跡など)の集落に住んでいた人びとにより築造されたものと考えられ、古墳とそれをつくった人びとの集落の対応関係が明らかになっためずらしい例といえます。
残念ながらこれらの古墳の被葬者が誰なのかは謎につつまれたままですが、トレッキングコースを散策して汗をぬぐいながら、眼下に広がる浅川扇状地を眺めつつ、古代のロマンに想いを寄せてみるのも、きっと楽しいと思いますよ。
(平成24年7月)

調査前の上池ノ平1号墳

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