ふたつの埋葬施設のナゾ!?~ 菅間王塚古墳 ~
長野市教育委員会 学芸員
飯島 哲也
日本にある古墳の総数は、正確な数は不明ですが15万基とも20万基とも言われており、その大多数が土を盛り上げて墳丘を形づくる「盛土墳」です。土の代わりに石を積み上げた古墳を「積石塚」と呼んでいますが、これは日本全国で1500基から2000基くらいと言われており、古墳全体の1%にすぎません。しかし長野県北部とりわけ長野市は、この積石塚古墳の数が非常に多いことで有名です。なかでも長野県で最も大きい積石塚古墳が、松代町東条にある菅間王塚古墳です。
菅間王塚古墳は、国史跡の大室古墳群とは奇妙山をはさんだ南西側の斜面の、標高478m付近に位置しています。直径約34m、高さ約6.7mの円墳で、これまでに正式な発掘調査は行われていませんが、1965(昭和40)年2月25日に長野県史跡に指定されました。
墳丘は、近在にて産出する奇妙山系火山岩のうち、人頭大の安山岩質石塊のみで積み上げられています。傾斜地に立地しているため、斜面下方側からの見かけの墳丘は高さ6.7mもの高さとなりますが、墳頂部は削平されているため比較的平坦です。そこの中心部よりやや山側に埋葬施設が露出しており、今も見学することができます。長さ4m、幅1.3mの竪穴式石室と言われ、馬具・直刀・須恵器が出土したと伝えられていますが、遺物は現在確認することができません。
菅間王塚古墳(全景)
実はこれとは別にもうひとつの埋葬施設の存在が報告されています。1970(昭和45)年ごろに盗掘を受けたらしく、1973年の『長野県指定文化財調査報告』第四集によりますと、墳頂表面から約1.2m下に、長さ3.5m、幅1.25mを測る、赤色塗彩された合掌形石室があったと言われています。長側壁に左右4枚、短側壁に2枚ずつの厚みのある板石を並べて基部とし、天井石として長側壁側3枚、短側壁側2枚ずつの板石を内傾させて立てかけ、いわゆる寄棟屋根形に組み合わせていたそうです。出土遺物は確認されておらず、現在は埋め戻されていますので見学することはできません。
横穴式石室 開口部
ひとつの墳丘に複数の埋葬施設が存在すること自体はそう珍しいことではありませんが、菅間王塚古墳の場合、墳丘が明確に区分できる点に注目しています。墳丘の斜面下方側は石塊のみが積み上げられており、雑草も生えず、歩くとゴツゴツと石同士が当る音がします。山側は土砂が混入しており雑草も生えています。私は、ふたつの埋葬施設は、それぞれ別の古墳ではないかと疑っています。山側からの土砂の自然流入という可能性もありますが、現在露出している上部の埋葬施設については、これまでに言われているような竪穴式石室ではなく、横穴式石室である可能性が高いと思います。つまり、古い古墳(積石塚古墳)の上に、新しい古墳(横穴式石室墳)を後から造ったのではないでしょうか。出土したと伝えられる遺物の種類からも竪穴式石室とは考えにくいですし、中心よりも山側に位置がズレていることも根拠のひとつです。
山側から見た菅間王塚古墳と皆神山
あくまで正式な発掘調査が実施されていませんので私の憶測に過ぎませんが、平成9年に発掘調査された、藤沢川の対岸に位置する西前山古墳にもふたつの埋葬施設が推定されており、参考になるかもしれません。いずれにしても、近年、松代町の東条から豊栄にかけての一帯は、5世紀後半から7世紀代末ぐらいまで連綿と古墳が造り続けられてきた地域であることがわかってきました。今に残る数少ない古墳たちを護り、後世に正しく、そう正しく伝え残すことが改めて大事なことだと感じています。
斜面下方側の墳丘
(平成27年6月)