長野県立歴史館 信濃史料
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頁
後土御門
応仁二年正月一日
1468
諏訪社上社、神使御頭を定む、
1
後土御門
応仁二年三月二六日
1468
木曽定勝寺中興開山恵厳、香林、寂す、
2
後土御門
応仁二年四月八日
1468
諏訪社上社、同社明年花会頭役を、佐久郡安原郷等に充つ、
3
後土御門
応仁二年五月五日
1468
諏訪社上社、同社明年五月会頭役を、高井郡須田郷等に充つ、
4
後土御門
応仁二年五月八日
1468
伊那郡文永寺僧宗詢、知久氏、山城醍醐寺理性院宗典より、牛王根本印明を伝授せらる、
5
後土御門
応仁二年五月二三日
1468
井上某、高井郡須田郷に須田雅政と戦ひて、敗る、
7
後土御門
応仁二年七月二九日
1468
諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、伊那郡宮田郷等に充つ、
7
後土御門
応仁二年八月一日
1468
京都東山の小笠原長清の廟所、兵乱のために焼失す、
8
後土御門
応仁二年閏一〇月一〇日
1468
遣明正使清啓天与、等、日本国内の騒乱の故を以て、明国に回礼船派遣について考慮を促す、
10
後土御門
応仁二年閏一〇月一八日
1468
遣明正使清啓天与、等、明国憲宗皇帝に謁見し、足利義政の表を呈す、
11
後土御門
応仁二年閏一〇月二六日
1468
是より先、遣明使の随員又三郎、人を傷害す、明国、之を治罰せんとす、是日、正使清啓、天与、免罪を憲宗皇帝に請ひて、聴許せらる、
13
後土御門
応仁二年一一月四日
1468
小笠原宗清、卒す、
15
後土御門
応仁二年一一月二一日
1468
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
15
後土御門
応仁二年一二月二〇日
1468
遣明正使清啓天与、等、帰国乗船用意の諸件を注す、
17
後土御門
応仁二年一二月二一日
1468
是より先、遣明正使清啓、天与、進貢品の価直について明国官僚と争論して主張を抂げず、是日、憲宗皇帝、勅裁して、その所論を抑制す、
20
後土御門
応仁二年一二月二六日
1468
遣明正使清啓、天与、帰国せんとす、明国憲宗皇帝、足利義政への回書を清啓に託す、
21
後土御門
応仁二年
1468
善光寺住持善峯、朝鮮に使節を送らんとし、対馬の宗貞国を以て、朝鮮に接待を求む、
29
後土御門
応仁二年
1468
海野某、千葉城を囲む、
30
後土御門
文明元年
1469
明国僧録司左覚義北京大興隆寺住持文淳、質庵、遣明正使清啓天与、の頂相に賛す、
30
後土御門
文明元年四月八日
1469
諏訪社上社、同社明年花会頭役を、高井郡小柳郷等に充つ、
31
後土御門
文明元年四月一一日
1469
小諸市柏木の地蔵菩薩像、成る、 小諸市柏木細谷高次氏所蔵の地蔵菩薩像銘
32
後土御門
文明元年五月五日
1469
諏訪社上社、同社明年五月会頭役を、小県郡上田郷等に充つ、
33
後土御門
文明元年七月二九日
1469
諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、伊那郡大嶋・名子郷等に充つ、
34
後土御門
文明元年八月一三日
1469
興福寺大乗院尋尊、遣明正使清啓天与、等の一行、土佐に著岸せる由を伝聞す、 清啓の事跡
34
後土御門
文明元年一二月二五日
1469
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
44
後土御門
文明元年
1469
善光寺塔供養あり、
46
後土御門
文明二年正月一一日
1470
佐久郡大井法華堂源宗、平賀の玉蔵坊に、大神宮並に熊野社参詣の先達職を譲る、
46
後土御門
文明二年二月四日
1470
諏訪社上社神使等精進始、
48
後土御門
文明二年二月一五日
1470
相国寺常徳院小補軒主景三、横川、小笠原長清の墓誌銘を書す、
48
後土御門
文明二年三月四日
1470
諏訪社上社外県神使、伊那郡廻湛神事に発す、尋で、内県並に大県神使等、諏訪郡廻湛神事に発す、
49
後土御門
文明二年四月八日
1470
諏訪社上社、同社明年花会頭役を、伊那郡安嶋郷等に充つ、
51
後土御門
文明二年四月一八日
1470
佐久郡東小諸の左馬大夫信吉、熊野社・富士浅間社先達の檀那職を女子少弐に預く、
52
後土御門
文明二年五月三日
1470
佐久郡望月月輪寺前住某、寂す、
52
後土御門
文明二年五月五日
1470
諏訪社上社、同社明年五月会頭役を、小県郡田中郷等に充つ、
53
後土御門
文明二年七月三〇日
1470
諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、水内郡高田郷等に充つ、
54
後土御門
文明二年一〇月一四日
1470
足利義政、諏訪社上社に神剣を納め、子息の息災延命を祈願す、
55
後土御門
文明二年一一月二二日
1470
諏訪社上社神使等精進始、
56
後土御門
文明二年一一月二九日
1470
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
57
後土御門
文明二年一二月二九日
1470
諏訪社上社、同社の社殿を造営し、是日、上棟の儀を行ふ、
58
後土御門
文明三年正月一日
1471
諏訪社上社、神使御頭を定む、 諏訪大明神、神長守矢満実に夢想の異を示す、
59
後土御門
文明三年二月一〇日
1471
諏訪社上社神使等精進始、
61
後土御門
文明三年
1471
信濃の僧相模禅興寺明月院塔主英璵、玉隠、甲斐安国寺栖碧庵主善叔の請に応じて、之に道号を与へ、その頌を作る、
61
後土御門
文明三年三月一〇日
1471
諏訪社上社外県神使、廻湛神事に発す、尋で、内県並に大県神使等、廻湛神事に発す、
63
後土御門
文明三年四月五日
1471
信濃大沼堂塔供養あり、
63
後土御門
文明三年四月八日
1471
諏訪社上社、同社明年花会頭役を、小県郡深井郷等に充つ、
64
後土御門
文明三年四月一三日
1471
将軍足利義政、上杉房定をして、信濃のことを措き、再び関東に出陣せしむ、
65
後土御門
文明三年四月一六日
1471
諏訪社上社大宮蓮池に異変あり、仍りて、諏訪継満・同信満・同頼満等、祈祷を行ふ、
65
後土御門
文明三年四月二六日
1471
諏訪社上社守矢満実、信濃守に任ぜらる、
66
後土御門
文明三年五月五日
1471
諏訪社上社、同社明年五月会頭役を、筑摩郡捧庄等に充つ、
67
後土御門
文明三年六月一日
1471
是より先、伴野貞棟、太刀等を将軍足利義政に進む、是日、義政、之に答謝す、
68
後土御門
文明三年七月二九日
1471
諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、水内郡市村郷等に充つ、
68
後土御門
文明三年
1471
相摸禅興寺明月院塔主英璵、玉隠、梵宙洪源、芳樹茂春、祖養賢輔、梵玖玉岫、等の請に応じて、各々道号を与へ、その頌を作る、
70
後土御門
文明三年一一月六日
1471
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
73
後土御門
文明三年一一月二二日
1471
諏訪社上社神使等精進始、
74
後土御門
文明三年一一月二六日
1471
信濃の僧愚底、経誉、聖観音誉より浄土宗血脈を授与せらる、
75
後土御門
文明三年
1471
朝鮮の申叔舟、日本の沿革及び通交の事等を記述し、海東諸国記といふ、この中に信濃関係の記事見ゆ、 拾芥抄及び掌中暦残篇の中の信濃に関する記事
76
後土御門
文明四年正月一日
1472
諏訪社上社、神使御頭を定む、
79
後土御門
文明四年二月九日
1472
諏訪社上社神使等精進始、
79
後土御門
文明四年三月二九日
1472
伊那郡文永寺僧宗詢、近江善業寺に除災教令を書写し、その伝授を受く、
80
後土御門
文明四年四月八日
1472
諏訪社上社、同社明年花会頭役を、伊那郡河野郷等に充つ、
81
後土御門
文明四年五月五日
1472
諏訪社上社、同社明年五月会頭役を、高井郡江部郷等に充つ、
82
後土御門
文明四年五月二〇日
1472
佐久郡大井某、甲斐花取山に戦ふ、
83
後土御門
文明四年七月八日
1472
伊那郡文永寺僧宗詢、紀伊高野山悉地院に於て、諏方大明神画詞を書写す、
83
後土御門
文明四年七月二九日
1472
諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、佐久郡桜井郷等に充つ、
84
後土御門
文明四年八月一二日
1472
是より先、伊那郡文永寺僧宗詢、上洛して山城醍醐寺理性院宗典より、法流の伝授を受く、是日、宗典、書信を宗詢に通じて、受法について重ねて依嘱するところあり
85
後土御門
文明四年一一月一八日
1472
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
86
後土御門
文明五年二月二一日
1473
将軍足利義政、小笠原家長をして、同政秀政貞、と議し、美濃に進発し、同国守護土岐成頼を伐たしむ、
88
後土御門
文明五年三月九日
1473
将軍足利義政、小笠原定基をして、木曽家豊の土岐成頼討伐に合力せしむ、
90
後土御門
文明五年四月八日
1473
諏訪社上社、同社明年花会頭役を、佐久郡矢嶋郷等に充つ、
92
後土御門
文明五年五月五日
1473
諏訪社上社、同社明年五月会頭役を、埴科郡坂木郷等に充つ、
93
後土御門
文明五年五月一一日
1473
是より先、信濃の人諏訪某、白鷹を細川勝元に贈る、勝元、その貌を図せしめ、山城岩栖院主霊彦希世、をして、その記を作らしむ、是日、勝元、卒す、
94
後土御門
文明五年七月三〇日
1473
諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、更級郡河井郷等に充つ、
96
後土御門
文明五年八月二五日
1473
管領畠山義勝、義統、先に朝鮮王より得て能登天徳寺に納めし大蔵経の経蔵造営の資を得んとし、同寺住持照隣を正使となし、信濃の僧良心を、その副使として、之に随伴せしむ、是日、使者等、京城に至り、成宗に義勝の書を呈し、物を献ず、
97
後土御門
文明五年九月二日
1473
畠山義勝義統、の遣鮮使照隣・良心等、礼曹の饋餉に与る、尋で、副使良心、義勝よりの書信を国王に呈して、日本国状を訴ふ、
98