長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻九 (300頁~)
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後土御門
文明一五年二月九日
1483
木曽家盛、木曽定勝寺をして、同寺造営関を安堵せしむ、
300
後土御門
文明一五年二月一九日
1483
矢崎政継等、諏訪政満の讎を報ぜんがため、兵を率ヰて諏訪社上社大祝諏訪継満を諏訪郡干沢城に攻めて、之を陥る、継満、伊那に奔り、その父頼満、難に死す、
300
後土御門
文明一五年三月一九日
1483
諏訪社下社金刺興春、諏訪継満を援けんとして、兵を出して、諏訪郡上桑原武津を焼く、矢崎政継等、興春と戦ひて之を殺し、尋で、下社を焼く、また小笠原長朝、政継等を援けて、下社領、小野・塩尻等を押領す、
302
後土御門
文明一五年四月八日
1483
諏訪社上社、同社明年花会頭役を、水内郡今井・石渡戸郷等に充つ、
303
後土御門
文明一五年五月五日
1483
諏訪社上社、同社明年五月会頭役を、埴科郡坂木郷等に充つ、
304
後土御門
文明一五年五月一五日
1483
某、木曽定勝寺に禁制を掲ぐ、
305
後土御門
文明一五年五月二六日
1483
伊那郡文永寺僧宗詢、同寺密乗院に於て、秘伝を書写す、 宗詢、秘口決を書写す、
305
後土御門
文明一五年七月二七日
1483
諏訪社上社御射山祭神事行はれず、
306
後土御門
文明一五年七月二九日
1483
諏訪社上社、同社明年御謝山祭頭役を、水内郡漆田郷等に充つ、
307
後土御門
文明一五年
1483
宗穆、悦堂、小県郡祢津定津院に住す、尋で、同寺開山宗英拈笑、の喪葬の礼を行ふ、
308
後土御門
文明一五年九月二八日
1483
對本願寺兼寿、蓮如、親鸞・浄興寺開祖善性対座の画像、及び法然上人画像に裏書を書し、水内郡長沼浄興寺巧観に授く、
308
後土御門
文明一五年一〇月一一日
1483
伊那郡文永寺僧宗詢、聖教を書写す、
310
後土御門
文明一五年一一月二四日
1483
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
310
後土御門
文明一五年
1483
上野長源寺住持祥貞、天英、同寺を退院し、佐久郡龍雲寺住持となる、
312
後土御門
文明一六年正月一日
1484
諏訪社上社、神使御頭を定む、
313
後土御門
文明一六年二月二日
1484
木曽家盛、同家豊供養のため、十三仏木像を造立し、之を筑摩郡定勝寺に寄進す、
314
後土御門
文明一六年二月七日
1484
諏訪社上社神使、御左口神降の儀なし、
314
後土御門
文明一六年二月二七日
1484
佐久郡大井城陥り、龍雲寺大破す、仍りて、同寺住持祥貞、天英、上野長源寺に帰る、
315
後土御門
文明一六年三月八日
1484
諏訪社上社外県神使立増なし、尋で、内県介神使の立増もなし、
316
後土御門
文明一六年
1484
是より先、信濃の僧喜江、その所居の斎を図して、関東禅林の諸尊宿に題詩を求む、是春、相摸禅興寺明月院塔主英璵、玉隠、喜江の請に応じて、その詩画軸に序す、
316
後土御門
文明一六年四月七日
1484
諏訪社上社、本年花会なし、
318
後土御門
文明一六年四月八日
1484
諏訪社上社、同社明年花会頭役を、水内郡北高田郷等に充つ、
318
後土御門
文明一六年五月三日
1484
諏訪継満、小笠原政秀政貞、等の援を得て、片山城を修築して之に拠る、小笠原長朝等、之を攻む、
319
後土御門
文明一六年五月五日
1484
諏訪社上社、同社明年五月会頭役を、更級郡桑原郷等に充つ、
320
後土御門
文明一六年
1484
高梨政盛、高井郡山田城に同高朝を攻めて同城を奪ふ、 高梨政盛、同将秀に高井郡大熊を知行せしむ、
321
後土御門
文明一六年六月二三日
1484
筑摩郡西光寺の阿弥陀如来像の修理、成る、
322
後土御門
文明一六年六月二六日
1484
高梨政盛、同治部少輔をして、高井郡江部村を、知行せしむ、
323
後土御門
文明一六年七月二九日
1484
諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、佐久郡野沢郷等に充つ、
324
後土御門
文明一六年
1484
伊那郡法全寺住持智云、古雲、商霖の請に応じて、その師前建仁寺住持清禅伯元、の頂相に賛す、
325
後土御門
文明一六年一〇月二日
1484
埴科郡弥勒寺の薬師如来像、成る、
326
後土御門
文明一六年一〇月二三日
1484
信濃の僧瑞知客、和泉海会寺に同寺住持大叔季弘、を訪ひ、信濃佐久郡慶雲寺住持長宗、継甫、の伝言を告ぐ、尋で、大叔、長宗の請に応じて、之に道号を与へ、且つその説を作る、
326
後土御門
文明一六年一二月八日
1484
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
329
後土御門
文明一六年一二月二八日
1484
諏訪宮法師丸、頼満、諏訪社上社大祝の位に即く、
330
後土御門
文明一七年正月一日
1485
諏訪社上社、神使御頭を定む、
338
後土御門
文明一七年閏三月一八日
1485
諏訪社上社神宮寺の大日如来像、成る、
339
後土御門
文明一七年閏三月二七日
1485
浅完、諏訪社上社大祝即位十三所御社参次第を注す、
340
後土御門
文明一七年
1485
信濃の僧、相摸禅興寺の徒輝卿、信濃に帰らんとす、同寺明月院塔主英璵、玉隠、詩を作りて之に餞す、
342
後土御門
文明一七年四月八日
1485
諏訪社上社、同社明年花会頭役を、更級郡四宮庄等に充つ
343
後土御門
文明一七年四月一一日
1485
是より先、建仁寺禅居庵十竹軒主智云、古雲、伊那郡法全寺より上洛す、是日、智云、相国寺雲頂院松泉軒主集証亀泉、を訪ふ
344
後土御門
文明一七年五月五日
1485
諏訪社上社、同社明年五月会頭役を、高井郡須田郷等に充つ、
345
後土御門
文明一七年七月二八日
1485
相国寺雲頂院松泉軒主集証、亀泉、建仁寺禅居庵塔主智云古雲、を訪ふ、
346
後土御門
文明一七年七月二九日
1485
諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、水内郡赤沼郷等に充つ、
346
後土御門
文明一七年八月一二日
1485
今清水秀儀、子孫のため、水内郡富倉在家知行につき、置文を書す、
347
後土御門
文明一七年八月一四日
1485
是より先、建仁寺禅居庵塔主智云、古雲、相国寺大徳院宜竹軒主周麟景徐、に画屏を贈る、是日、同寺雲頂院松泉軒主集証、亀泉、その賛詩を作り、周麟に贈る、
348
後土御門
文明一七年九月一〇日
1485
幕府、僧寿祥玉麟、を伊那郡開善寺住持となす、
349
後土御門
文明一七年九月一五日
1485
相国寺鹿苑院蔭凉軒主集証、亀泉、肥後清源寺を諸山に列せんことを足利義政に披露し、その証判様式の先例として、伊那郡開善寺諸山列位の御教書案文を義政に呈す、
350
後土御門
文明一七年一一月二八日
1485
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
351
後土御門
文明一七年一二月一日
1485
建仁寺住持竜沢、天隠、上堂す、禅居庵十竹軒主智云、古雲、知客として、之を助化す、竜沢謝語を述べてその労を犒ふ、
352
後土御門
文明一八年正月一日
1486
諏訪社上社、神使御頭を定む、
354
後土御門
文明一八年正月一六日
1486
守矢継実、宮内少丞に任ぜらる、
354
後土御門
文明一八年四月五日
1486
平繁則、小県郡法住寺虚空蔵堂を建立す、
355
後土御門
文明一八年四月八日
1486
諏訪社上社、同社明年花会頭役を、筑摩郡殿嶋郷等に充つ、
356
後土御門
文明一八年五月三日
1486
前信濃守護小笠原光康、卒す、
357
後土御門
文明一八年五月五日
1486
諏訪社上社、同社明年五月会頭役を、筑摩郡内田・埴原郷等に充つ、
361
後土御門
文明一八年五月二四日
1486
安曇郡霊松寺前住持侑松、雪巌、寂す、
363
後土御門
文明一八年六月二九日
1486
幕府、僧等訓習之、を信濃西光寺住持となす、
366
後土御門
文明一八年七月一四日
1486
山城常光院尭恵、善光寺に詣づ、 聖護院道興、上野国に滞在し、浅間山を望みて歌を詠ず、
367
後土御門
文明一八年七月二七日
1486
長野市大門町出土の五輪塔、成る、 この年代造立の県内所在の長野市元善町大勧進・同箱清水地蔵堂・北佐久郡本牧町月輪寺・同浅科村宝泉寺・長野市横山社子神社所蔵の五輪塔銘、
368
後土御門
文明一八年七月二九日
1486
諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、水内郡赤沼郷等に充つ、
370
後土御門
文明一八年八月九日
1486
伊那郡文永寺真偵、除災教令を書写す、
371
後土御門
文明一八年八月二七日
1486
伊那郡文永寺僧宗詢、六大等大事を書写す、
372
後土御門
文明一八年一〇月二四日
1486
美濃梅花無尽蔵主人集九、萬里、相摸禅興寺明月院に同院塔主英璵、玉隠、を訪ふ、
373
後土御門
文明一八年一〇月二八日
1486
相摸禅興寺明月院塔主英璵、玉隠、美濃梅花無尽蔵主人集九萬里、を建長寺華光庵の客舎に訪ひて、聯句す、
375
後土御門
文明一八年一二月一一日
1486
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
376
後土御門
文明一八年
1486
信濃の人常田光房、美濃梅花無尽蔵主人集九萬里、を武蔵江戸城内の客舎に訪ひて、その所居の亭の扁名を受く、 信濃の人新津道端、甲斐永昌院住持瑞潭菊隠、に、道号及びその説を受く、
377
後土御門
文明一八年
1486
信濃の僧徳忠、節香、出家す、
379
後土御門
長享元年正月一日
1487
諏訪社上社、神使御頭を定む、
380
後土御門
長享元年正月一日
1487
円覚寺の徒器朴、下野足利学校に遊学し、雪の詩を作りて、建長寺の諸尊宿の和韻を求む、尋で、諸老、之を和韻す、相摸禅興寺明月院塔主英璵、玉隠、その員に備はる、 信濃の僧二人、足利学校に遊学す、
380
後土御門
長享元年三月一四日
1487
相国寺崇寿院塔主景三横川、等、同院に於て聯句す、建仁寺禅居庵塔主智云、古雲、その員に備はる、
382
後土御門
長享元年四月八日
1487
諏訪社上社、同社明年花会頭役を、伊那郡飯嶋郷等に充つ、
382
後土御門
長享元年四月一六日
1487
幕府、信濃の僧明閦東牧、を山城興聖寺住持となす、
383
後土御門
長享元年五月五日
1487
諏訪社上社、同社明年五月会頭役を、伊那郡大草郷等に充つ、
384
後土御門
長享元年六月二〇日
1487
諏訪社上社神長守矢満実、上原賢家に、同社の神秘のことを書送る、 守矢満実、諏訪大明神深秘御本事等を記す、
385