長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻九 (400頁~)
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後土御門
長享元年七月二四日
1487
下伊那郡上村程野薬師堂の薬師如来像、成る、
423
後土御門
長享元年七月二七日
1487
将軍足利義尚・近衛政家等、幕府奉行人諏訪貞通の勧進により、諏訪社上社御射山祭法楽和歌を詠進す、
424
後土御門
長享元年七月二七日
1487
伊那郡高遠諏訪継宗、諏訪郡有賀を攻む、尋で、同郡福嶋を奪ふ、
429
後土御門
長享元年七月二九日
1487
諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、伊那郡藤沢庄等に充つ、
430
後土御門
長享元年八月二七日
1487
伊那郡文永寺僧宗詢、理上抄目録を書写せしむ、
431
後土御門
長享元年九月六日
1487
建仁寺禅居庵十竹軒主智云、古雲、山城等持寺に、同寺住持周麟景除、を訪ふ、
431
後土御門
長享元年九月九日
1487
相摸禅興寺明月院塔主英璵、玉隠、某人の請に応じて、扇面に題詩す、
432
後土御門
長享元年一二月一六日
1487
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
432
後土御門
長享元年
1487
足利義政、建仁寺禅居庵十竹軒主智云古雲、を官寺住持に瑞世せしめんとす、
434
後土御門
長享元年
1487
相摸禅興寺明月院塔主英璵、玉隠、詩を作りて、建長寺の徒喆上人の詩文に励むを賞す、
434
後土御門
長享二年正月一日
1488
諏訪社上社、神使御頭を定む、
435
後土御門
長享二年二月二四日
1488
相国寺鹿苑院蔭凉軒主集証、亀泉、建仁寺禅居庵十竹軒主智云古雲、を官寺に住持せしめんことを、幕府に請ふ、
436
後土御門
長享二年二月二四日
1488
伊那郡文永寺僧宗詢、山城醍醐寺理性院に於て、修法次第を書写す、
436
後土御門
長享二年四月八日
1488
諏訪社上社、同社明年花会頭役を、伊那郡片切郷等に充つ、
437
後土御門
長享二年四月一五日
1488
建仁寺禅居庵十竹軒主智云、古雲、同寺住持竜沢天隠、会下に結制秉払を勤む、
438
後土御門
長享二年四月二二日
1488
幕府、建仁寺禅居庵十竹軒主智云古雲、を、山城興聖寺住持となす、
439
後土御門
長享二年五月五日
1488
諏訪社上社、同社明年五月会頭役を、埴科郡坂木庄等に充つ、
439
後土御門
長享二年六月三〇日
1488
相国寺雲頂院松泉軒主集証、亀泉、近江西教寺真盛の善光寺に参詣せしことを伝聞す、
440
後土御門
長享二年七月八日
1488
相国寺鹿苑院蔭凉軒主集証、亀泉、山城興聖寺住持智云古雲、を伊那郡開善寺住持となさんことを、足利義政に披露す、
441
後土御門
長享二年七月二二日
1488
相国寺鹿苑院蔭凉軒主集証、亀泉、建仁寺禅居庵十竹軒主智云古雲、を伊那郡開善寺住持となさんことを、足利義政に披露す、
442
後土御門
長享二年七月二九日
1488
諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、佐久郡桜井郷等に充つ、
443
後土御門
長享二年
1488
諏訪社下社、春秋之宮造宮之次第を注す、
444
後土御門
長享二年八月九日
1488
信濃の僧、前伊那郡法全寺・山城興聖寺住持、建仁寺禅居庵十竹軒主智云、古雲、寂す、
457
後土御門
長享二年九月三日
1488
建仁寺大昌院塔主竜沢、天隠、同寺禅居庵十竹軒主智云古雲、に伊那郡開善寺入院公帖を追贈せんことを、足利義政に請ふ、
465
後土御門
長享二年九月一七日
1488
水内郡大安寺の宝篋院塔、成る、
466
後土御門
長享二年
1488
相摸禅興寺明月院塔主英璵、玉隠、秀雲居士姓闕く、の点茶仏事を勤む、
467
後土御門
長享二年一二月一三日
1488
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
468
後土御門
延徳元年正月一日
1489
諏訪社上社、神使御頭を定む、
470
後土御門
延徳元年二月一日
1489
安曇郡穂高社大檀那大伴盛知、同社式年造宮課役を、同郡諸郷に充つ、
470
後土御門
延徳元年二月一二日
1489
信濃の僧下総東漸寺開山愚底、経誉、同寺を弟子透誉に譲る、
472
後土御門
延徳元年二月一五日
1489
伊那郡文永寺僧宗詢、雑口伝を校合す、
473
後土御門
延徳元年二月二四日
1489
相国寺常徳院の徒承棟、季材、同寺鹿苑院蔭凉軒主集証亀泉、に信濃の僧明閦、東牧、を伊那郡開善寺住持に推挙内定せしことを告ぐ、
474
後土御門
延徳元年
1489
相摸禅興寺明月院塔主英璵、玉隠、脚疾あり、同国箱根湯本に湯治す、
474
後土御門
延徳元年三月一〇日
1489
伴野了然、光信、卒す、
475
後土御門
延徳元年
1489
東福寺退畊庵塔主永誠、明之、その祖前南禅・東福両寺住持霊見性海、の行実を撰述す、
476
後土御門
延徳元年四月八日
1489
諏訪社上社、同社明年花会頭役を、水内郡南高田郷等に充つ、
477
後土御門
延徳元年五月五日
1489
諏訪社上社、同社明年五月会頭役を、筑摩郡捧庄等に充つ、
478
後土御門
延徳元年五月一六日
1489
相国寺常徳院の徒承棟、季材、建仁寺禅居庵の徒明閦東牧、を相国寺鹿苑院蔭凉軒主集証亀泉、に紹介す、
479
後土御門
延徳元年六月一三日
1489
相国寺常徳院の徒承棟、季材、建仁寺禅居庵静光軒主明閦東牧、に伊那郡開善寺入院公帖を附すべき書立を、相国寺鹿苑院蔭凉軒主集証亀泉、に呈す、
479
後土御門
延徳元年七月二六日
1489
三条西実隆、幕府奉行人諏訪貞通及び上原賢家等の勧進により、諏訪社法楽和歌を詠進す、
480
後土御門
延徳元年七月三〇日
1489
諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、筑摩郡浅間郷等に充つ、
480
後土御門
延徳元年八月二日
1489
香坂某、小笠原長朝に合力せんがため、筑摩郡府中に出陣す、
481
後土御門
延徳元年八月五日
1489
伊那郡文永寺僧宗詢、先妣七回忌供養を行ふ、
482
後土御門
延徳元年九月六日
1489
相国寺鹿苑院塔主周鏡、月翁、五山十刹諸山新命住持の書立を、同院蔭凉軒主集証亀泉、に度与す、その書立中に禅居庵静光軒主明閦 東牧、あり、
483
後土御門
延徳元年九月一〇日
1489
相国寺鹿苑院蔭凉軒主集証、亀泉、建仁寺禅居庵静光軒主明閦東牧、を伊那郡開善寺住持となさんことを、足利義政に懇請す、
484
後土御門
延徳元年九月一七日
1489
相国寺鹿苑院蔭凉軒主集証、亀泉、同寺常徳院の徒承棟季材、を招きて、共に建仁寺禅居庵静光軒主明閦東牧、の伊那郡開善寺入院公帖の頒布せられたるを賀す、
484
後土御門
延徳元年九月一九日
1489
幕府、故山城興聖寺前住持建仁寺禅居庵十竹軒主智云古雲、に公帖を追贈す、
485
後土御門
延徳元年九月二三日
1489
建仁寺禅居庵静光軒主前山城興聖寺住持明閦、東牧、伊那郡開善寺入院公帖を受けたるを、相国寺鹿苑院蔭凉軒主集証亀泉、に謝す、
486
後土御門
延徳元年一一月六日
1489
伊那郡文永寺に於て、天竜橋の橋供養を行ふ、
488
後土御門
延徳元年一一月二四日
1489
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
489
後土御門
延徳二年正月一日
1490
諏訪社上社、神使御頭を定む、
491
後土御門
延徳二年
1490
相摸禅興寺明月院塔主英璵、玉隠、某人の請に応じて、北野天神の像に賛す、
491
後土御門
延徳二年二月八日
1490
佐久郡大井法華堂源祐、檀那職を上野房に譲る、
492
後土御門
延徳二年
1490
相摸円覚寺の諸僧、同寺に円覚経談義を行ひ、満散に当つて、偈を作りて之を賀す、同国禅興寺明月院塔主英璵、玉隠、その韻を和す、
492
後土御門
延徳二年四月八日
1490
諏訪社上社、同社明年花会頭役を、更級郡四宮郷等に充つ
493
後土御門
延徳二年四月九日
1490
知久満俊、先考俊範の三年忌法要を修す、
494
後土御門
延徳二年
1490
相摸禅興寺明月院塔主英璵、玉隠、詩を作りて、建長寺の徒祖心の帰郷するに餞す、
495
後土御門
延徳二年閏八月九日
1490
相国寺鹿苑院塔主景文、錦江、守猷雪航、を伊那郡建福寺住持となさんことを、足利義政に披露す、尋で、守猷、同寺に入院す、
495
後土御門
延徳二年一〇月一五日
1490
小笠原家長、卒す、
498
後土御門
延徳二年一一月二五日
1490
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
501
後土御門
延徳二年一二月二五日
1490
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
503
後土御門
延徳二年
1490
小県郡定津院住持宗穆、悦堂、相摸最乗寺住持となりて、同寺に赴任す、
504
後土御門
延徳三年正月一日
1491
諏訪社上社、神使御頭を定む、
505
後土御門
延徳三年六月二八日
1491
木曽義定、木曽定勝寺をして、関を設けて税を徴し、同寺造営料に充てしむ、
506
後土御門
延徳三年七月一六日
1491
筑摩郡の住人三村幸親・三沢道梅等、摂津禅通寺旧蔵の元版五燈会元を、同郡龍雲寺広沢寺、に寄進す、
507
後土御門
延徳三年
1491
鎌倉府執事上杉顕定、長尾平五、実名闕く、に命じ、禅興寺明月院塔主英璵玉隠、等をして、武蔵金沢文庫の典籍を点撿せしむ、
511
後土御門
延徳三年九月二九日
1491
望月光重、佐久郡八幡社を再建し、是日、遷宮を行ふ、
514
後土御門
延徳三年一一月二三日
1491
山城南禅寺大雲庵侍真良演、叔雅、同寺の末寺を注す、諏訪郡慈雲寺、その中にあり、
516
後土御門
延徳三年一一月二八日
1491
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
516
後土御門
延徳三年
1491
相摸禅興寺明月院塔主英璵、玉隠、建長寺の徒叔愚の韻を和して、雪の詩を作る、
517
後土御門
明応元年正月一日
1492
諏訪社上社、神使御頭を定む、
518
後土御門
明応元年八月二九日
1492
幕府、僧建昭を諏訪郡慈雲寺住持となす、
520
後土御門
明応元年
1492
相摸禅興寺明月院塔主英璵、玉隠、遠江の繁田宗治の請に応じて、その所居の斎銘を作る、
521
後土御門
明応元年
1492
是より先、幕府、前相国寺住持等恩天沢、を遣明正使となす、信濃の僧、建仁寺禅居庵の徒清勤、古川、之に随伴して入明せんとす、是月発軫の議あり、同寺霊泉院塔主龍崇常庵、・同寺大昌院塔主龍沢天隠、・同寺一華軒主寿桂月舟、・相国寺慈照院冝竹軒主周麟景徐、等詩を作りて之に餞す、 清勤の事蹟
522
後土御門
明応元年一二月九日
1492
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
532
後土御門
明応元年
1492
北佐久郡立科村藤原田の石幢、成る、
533
後土御門
明応二年正月四日
1493
伊那郡松尾小笠原定基、同郡鈴岡小笠原政秀政貞、父子を誘殺し、同郡伊賀良庄を奪ふ、尋で、府中小笠原長朝、之を怒り、しばしば定基と戦ふ、 小笠原家什書伝来のこと
534
後土御門
明応二年三月一一日
1493
是より先、清勤古川、等遣明使一行、和泉堺を出港す、是日、その報京都に達す、
538
後土御門
明応二年三月一三日
1493
大井康光、佐久郡成身院に金幢幡を寄進す、
538
後土御門
明応二年四月二八日
1493
水内郡長沼浄興寺了周、本願寺兼寿蓮如、より、自筆裏書の寿像を授与せらる、 了周、在京し、兼寿、了周の父巧観と書信を通ず、
539
後土御門
明応二年六月二二日
1493
後柏原天皇、諏訪社の奉加に太刀を寄進せらる、
544
後土御門
明応二年七月二七日
1493
小諸市十二社社殿の修造、成る、
544
後土御門
明応二年一〇月二四日
1493
依田長久、佐久郡茂沢・山口等の檀那職を、同郡大井法華堂に譲る、
545
後土御門
明応二年一一月二一日
1493
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
546