長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻九 (100頁~)
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後土御門
文明五年一〇月一七日
1473
遣鮮使照隣・良心等、宣政殿に於て成宗に見え、爵及び物を与へらる、
101
後土御門
文明五年
1473
遣鮮使良心、神応経を齎し、八処灸法を朝鮮に伝ふ、
101
後土御門
文明五年一一月二一日
1473
是より先、小笠原家長、子定基及び小笠原一族と共に美濃大井・荻嶋両城を攻めて之を陥る、是日、将軍足利義政、小笠原家長並に一族の戦功を褒す、尋で、また明日、家長の戦功を褒す、 将軍足利義政、小笠原政秀を信濃守護に補す、
107
後土御門
文明五年一二月一〇日
1473
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
112
後土御門
文明五年一二月二五日
1473
将軍足利義尚、父義政と共に始めて参内す、小笠原長朝等、之に供奉す、
113
後土御門
文明六年四月八日
1474
諏訪上社、同社明年花会頭役を、水内郡古野郷等に充つ、
115
後土御門
文明六年四月八日
1474
佐久郡前山貞祥寺開山徳忠、節香、生る、
116
後土御門
文明六年五月五日
1474
諏訪社上社、同社明年五月会頭役を伊那郡赤須郷等に充つ、
117
後土御門
文明六年五月一六日
1474
興福寺大乗院泰増等、善光寺に参詣せんことを同院尋尊に申入る、
117
後土御門
文明六年六月四日
1474
善光寺焼く、
118
後土御門
文明六年七月三〇日
1474
諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、小県郡塩田庄等に充つ、
119
後土御門
文明六年
1474
相国寺常徳院小補軒主景三、横川、佐久郡大井政光の請に応じて、之に表徳号を与へ、その説を作る、 依田朝世、集九萬里、より道号を与へられ、その頌を受く、
120
後土御門
文明六年一一月一八日
1474
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
123
後土御門
文明六年
1474
信濃の僧一音、梅岑、佐久郡大井政光の使節として、上洛す、相国寺常徳院小補軒主景三、横川、その請に応じて、之に道号を与へ、その頌を作る、
124
後土御門
文明七年正月二五日
1475
諸国闕官を注す、信濃国、権守・介・大掾・小掾・大目・小目等を闕く、 県召除目、源春朝、信濃権守に任ぜらる、
125
後土御門
文明七年三月三日
1475
小県郡定津院住持宗英、拈笑、その徒宗穆悦堂、の請に応じて、その頂相に自賛を加ふ、
127
後土御門
文明七年四月八日
1475
諏訪社上社、同社明年花会頭役を、筑摩郡村井郷等に充つ、
129
後土御門
文明七年五月五日
1475
諏訪社上社、同社明年五月会頭役を、高井郡亘里郷等に充つ、
130
後土御門
文明七年五月六日
1475
是より先、遠江雲林寺住持覚証、明室、高井郡厳松院を開く、是日、覚証、寂す、
130
後土御門
文明七年五月一七日
1475
筑摩郡山家光政、同郡和田へ奔る、尋で、守矢満実に頼る、
131
後土御門
文明七年六月二六日
1475
是より先、小笠原家長・木曽家豊等、兵を率ゐて、美濃を侵す、仍りて、皇大神宮祢宜荒木田氏経、書を家豊並に美濃の斎藤妙椿に遣り、同宮領安曇郡仁科御厨の神役通行を押留せざらんことを求む、尋で、家豊、神使に違乱せざらん旨を氏経に伝ふ
132
後土御門
文明七年七月二日
1475
諏訪社上社社叢 、焼く、宝殿・神輿・神宝等、難を免る、
135
後土御門
文明七年七月一八日
1475
後土御門天皇、三条西実隆を召し、善光寺縁起絵詞を読ましむ、 実隆、三時知恩寺に於て、善光寺縁起絵詞を読む、
136
後土御門
文明七年七月三〇日
1475
諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、小県郡海野庄等に充つ、
136
後土御門
文明七年八月六日
1475
足利義政、小笠原家長をして、延暦寺僧徒等の近江守護六角高頼討伐に合力せしむ、
137
後土御門
文明七年九月一五日
1475
伊那郡文永寺僧宗詢、先師宗済十三回忌に先立ち、山城醍醐寺理性院宗典を請じて、同寺に結縁灌頂を行ふ、
139
後土御門
文明七年一〇月九日
1475
将軍足利義尚、犬追物を催す、小笠原某等、射手を勤む、
167
後土御門
文明七年一〇月九日
1475
山城醍醐寺理性院宗典、伊那郡文永寺に於て伝法灌頂を行ふ、
168
後土御門
文明七年一〇月一三日
1475
是より先、山家光政、諏訪信満に太刀を贈り、山家郷還住の斡旋を請ふ、是日、光政、同郷へ帰る、
187
後土御門
文明七年一〇月一三日
1475
沙弥覚寿、姓闕く、伊那郡文永寺に於て、両部曼荼羅供養を行ふ
188
後土御門
文明七年一一月二二日
1475
諏訪社上社、神使御頭等精進始、
189
後土御門
文明七年一一月二九日
1475
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
189
後土御門
文明八年三月四日
1476
是より先、幕府奉行人諏訪貞通、諏訪社不断大般若経転読再興の綸旨を申請す、是日、後土御門天皇の勅許あり、
191
後土御門
文明八年三月二九日
1476
後土御門天皇、三条西実隆をして、善光寺縁起絵詞を書写せしむ、
191
後土御門
文明八年四月八日
1476
諏訪社上社、同社明年花会頭役を、伊那郡片切郷等に充つ、
192
後土御門
文明八年五月五日
1476
諏訪社上社、同社明年五月会頭役を、筑摩郡深志郷等に充つ、
192
後土御門
文明八年六月一四日
1476
仁科盛直、安曇郡仁科神明の式年造営を行ひ、是日、遷宮を行ふ、
193
後土御門
文明八年七月三〇日
1476
諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、佐久郡鷹野郷等に充つ、
195
後土御門
文明八年一一月一九日
1476
筑摩郡熊野社社殿、成る、
196
後土御門
文明八年一二月一四日
1476
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
197
後土御門
文明八年
1476
諏訪社下社、造営あり、安曇郡住吉庄、同社春宮の四之御柱造営を勤む、
198