長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」 巻九 (200頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
後土御門文明九年正月二三日1477後土御門天皇、甘露寺親長を召し、善光寺縁起絵詞を読ましむ、201
後土御門文明九年四月八日1477諏訪社上社、同社明年花会頭役を、高井郡大岩郷等に充つ、202
後土御門文明九年五月五日1477諏訪社上社、同社明年五月会頭役を、伊那郡大草郷等に充つ、203
後土御門文明九年六月二四日1477信濃善光寺、焼く、204
後土御門文明九年七月三〇日1477諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、伊那郡宮田郷等に充つ、205
後土御門文明九年1477水内郡栗田某、同郡漆田秀豊を攻めて之を破る、206
後土御門文明九年一一月一五日1477後土御門天皇、山科言国をして、信濃五箇庄及び安曇郡住吉庄を安堵せしむ、206
後土御門文明九年一二月七日1477諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、207
後土御門文明九年1477興福寺大乗院尋尊、諸国守護人を注す、その中に信濃守護として、上杉房定・小笠原政秀、の両名を掲ぐ、208
後土御門文明一〇年三月五日1478高梨政盛、蜷川親元に物を贈る、210
後土御門文明一〇年三月一二日1478水内郡長沼淨興寺巧観、同寺前住持周観筆写の法然上人法語に奥書を加ふ、211
後土御門文明一〇年三月二三日1478伊那郡文永寺僧宗詢、山城醍醐寺理性院宗典を請じ、文永寺に於て結縁灌頂を行ふ、213
後土御門文明一〇年1478信濃の尼妙音、紀伊高野山慈尊院に参詣す、215
後土御門文明一〇年四月八日1478諏訪社上社、同社明年花会頭役を、伊那郡河野郷等に充つ、215
後土御門文明一〇年四月二四日1478山城醍醐寺理性院宗典、伊那郡文永寺に於て、金剛界略念誦次第を書す、217
後土御門文明一〇年五月一日1478山城醍醐寺理性院宗典、伊那郡文永寺僧宗詢をして、諸尊法を書写せしむ、218
後土御門文明一〇年五月五日1478諏訪社上社、同社明年五月会頭役を、埴科郡坂木郷等に充つ、219
後土御門文明一〇年五月一三日1478足利義政、遠山加藤左衛門尉を、姉小路基綱の所領飛騨小嶋・古河両郷代官として、入部せしめんとし、小笠原家長をして、之を援けしむ、219
後土御門文明一〇年七月二九日1478諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、伊那郡大嶋・名子郷等に充つ、221
後土御門文明一〇年1478伊那郡文永寺僧宗詢、同寺に於て、撿秘鈔を注書す、222
後土御門文明一〇年一一月九日1478諏訪社上社、埴科郡坂木郷の、同社五月会頭役指符祝銭を定む、223
後土御門文明一〇年一二月八日1478小笠原清宗、卒す、223
後土御門文明一〇年一二月一八日1478諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、229
後土御門文明一〇年一二月二八日1478是より先、美濃斉藤妙純、利国、織田敏春を援けて、斯波義寛の将織田敏定を尾張清洲城に攻む、是日、敏定、小笠原家長に救援を求む、230
後土御門文明一一年二月九日1479伏見宮王子某、甲斐より信濃に入り、諏訪に逗留す、233
後土御門文明一一年四月八日1479諏訪社上社、同社明年花会頭役を、筑摩郡内田・埴原郷等に充つ、233
後土御門文明一一年五月五日1479諏訪社上社、同社明年五月会頭役を、更級郡桑原郷等に充つ、234
後土御門文明一一年五月一八日1479三朝浄土七高僧の画像成る、尋で、本願寺兼寿、蓮如、之を水内郡長沼淨興寺巧観に授く、235
後土御門文明一一年七月二日1479小県郡法住寺什誓、宝篋印塔を造立す、236
後土御門文明一一年七月三〇日1479諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、伊那郡飯田郷等に充つ、236
後土御門文明一一年八月二四日1479佐久郡伴野某、大井某と合戦し、之を虜る、尋で、之を許す、237
後土御門文明一一年九月五日1479諏訪社上社大祝諏訪継満等、伊那郡嶋田に兵を出して、小笠原政秀政貞、を援く、238
後土御門文明一一年閏九月一〇日1479諏訪社上社大祝諏訪継満、伊那郡嶋田より諏訪に帰り、是日、大祝の位に立直る、238
後土御門文明一一年閏九月二二日1479諏訪社上社神長満実、筑摩郡坂西光維をして、同郡白姫・白河郷の同社大祝即位装束代の未済を赤沢左馬介に進済せしむ、239
後土御門文明一一年一一月一八日1479諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、241
後土御門文明一一年一一月二二日1479諏訪社上社神使等精進始、242
後土御門文明一二年正月一日1480諏訪社上社、神使御頭を定む、243
後土御門文明一二年二月二日1480諏訪社上社外県神使精進始、尋で、内県・大県神使等精進始、243
後土御門文明一二年二月六日1480諏訪社下社金刺興春等、同上社神原に火を放ち、西牧満兼精進屋御左口神等を焼く、尋で、また同所に放火す、243
後土御門文明一二年四月七日1480諏訪社上社花会、触穢に依りて、頭役を闕く、246
後土御門文明一二年四月八日1480諏訪社上社、同社明年花会頭役を、小県郡柴生田郷等に充つ、246
後土御門文明一二年五月五日1480諏訪社上社、同社明年五月会頭役を、筑摩郡捧庄等に充つ、247
後土御門文明一二年七月二八日1480小笠原政秀、政貞、伊那郡伊賀良に諏訪継宗を攻む、248
後土御門文明一二年七月三〇日1480諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、伊那郡藤沢庄等に充つ、248
後土御門文明一二年八月一二日1480諏訪社上社大祝諏訪継満、小笠原政秀、政貞、と共に、同家長を伊那郡伊賀良に攻む、249
後土御門文明一二年八月一六日1480小笠原長朝、仁科盛直を安曇郡穂高に攻めて、之を破る、249
後土御門文明一二年九月四日1480諏訪社上社大祝諏訪継満の室、卒す、250
後土御門文明一二年九月一四日1480信濃守護小笠原政秀、の代官一宮正久、山城相国寺常徳院萬松軒の、政秀の京都屋地を押妨するを、幕府に訴ふ、250
後土御門文明一二年九月一九日1480諏訪社上社大祝諏訪継満、伊那郡伊賀良より諏訪に帰り、是日、大祝の位に立直る、251
後土御門文明一二年九月二〇日1480是より先、山家光家、仁科盛直等と共に、小笠原長朝に叛す、是日、長朝、筑摩郡山家城を攻む、251
後土御門文明一二年一〇月一〇日1480諏訪社上社神使西牧満兼の館、焼く、252
後土御門文明一二年一一月二七日1480諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、253
後土御門文明一二年一一月二八日1480某、信濃国分寺牛頭天王祭文を書写す、254
後土御門文明一二年一一月三〇日1480足利義政、山城東福寺海蔵院に、同院領水内郡太田庄等を、また、同院末寺楞伽寺に、同寺領同郡芋川領家職を還付す、257
後土御門文明一二年一二月四日1480西筑摩郡読書村の十一面観音像、成る、259
後土御門文明一三年正月一日1481諏訪社上社、神使御頭を定む、260
後土御門文明一三年二月八日1481諏訪社上社外県神使等精進始、尋で、内県・大県神使等精進始、260
後土御門文明一三年三月八日1481諏訪社上社外県神使、伊那郡廻湛神事に発す、尋で、また内県・大県神使等、諏訪郡廻湛神事に発す、260
後土御門文明一三年四月八日1481諏訪社上社、同社明年花会頭役を、伊那郡松岡郷等に充つ、261
後土御門文明一三年四月一九日1481小笠原長朝、山家光家と兵を構ふ、是日、諏訪政満、光家を援けて、兵を諏訪郡真志野に出す、尋で、筑摩郡府中を攻む、261
後土御門文明一三年五月五日1481諏訪社上社、同社明年五月会頭役を、高井郡高梨庄等に充つ、262
後土御門文明一三年五月六日1481小笠原政秀、政貞、諏訪社上社に詣ず、263
後土御門文明一三年六月一四日1481二木重明、卒す、264
後土御門文明一三年七月二九日1481諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、伊那郡伊賀良庄等に充つ、264
後土御門文明一三年八月二〇日1481諏訪継宗、山田有盛と合戦す、是日、小笠原長朝、継宗を援け、伊那郡山田城を攻めて之を敗る、265
後土御門文明一三年1481小笠原政秀、政貞、遠江に出陣し、疵を被る、266
後土御門文明一三年一〇月八日1481是より先、幕府、信濃国人に奉書を下す、是日、美濃守護土岐成頼、物を上りて之を謝す、266
後土御門文明一三年一〇月一〇日1481香坂諏宗、諏訪社上社に詣ず、267
後土御門文明一三年一一月一二日1481小笠原政秀、政貞、遠江に戦ふに依り、保安寺宮知行分遠江村櫛庄の年貢到来せず、268
後土御門文明一三年一一月二二日1481諏訪社上社神使御頭等精進始、269
後土御門文明一三年一二月二〇日1481諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、269
後土御門文明一四年正月一日1482諏訪社上社、神使御頭を定む、271
後土御門文明一四年二月一日1482諏訪社上社神使等精進始、尋で、内県・大県神使等精進始、271
後土御門文明一四年三月一日1482諏訪社上社外県神使、伊那郡廻湛神事に発す、尋で、内県・大県神使等、諏訪郡廻湛神事に発す、272
後土御門文明一四年四月八日1482諏訪社上社、同社明年花会頭役を、伊那郡片切郷等に充つ、273
後土御門文明一四年四月一五日1482相摸禅興寺明月院塔主英璵、玉隠、出山釈迦像に賛す、273
後土御門文明一四年四月一六日1482諏訪社上社、御柱立神事を行ふ、諏訪政満御柱引を懈怠す、275
後土御門文明一四年四月一六日1482海野氏幸等、諏訪社上社神長守矢満実に太刀及び銭を贈る、276
後土御門文明一四年五月五日1482諏訪社上社、同社明年五月会頭役を、伊那郡大草郷等に充つ、276
後土御門文明一四年六月一七日1482諏訪社上社、遷宮を行ふ、277
後土御門文明一四年六月三〇日1482千野某・保科貞親等、高遠の諏訪継宗と兵を構ふ、諏訪政満、千野某等を援けんとして兵を出し、伊那郡笠原に戦ひて、継宗を破る、278
後土御門文明一四年閏七月五日1482後土御門天皇、諏方大明神縁起画詞を叡覧せらる、279
後土御門文明一四年閏七月二五日1482諏訪社上社御射山祭上増、279
後土御門文明一四年閏七月二九日1482諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、佐久郡小諸郷等に充つ、279
後土御門文明一四年八月一七日1482是より先、小笠原長朝、諏訪継宗を援けんとして、筑摩郡府中より伊那郡高遠に入る、是日、長朝等、同郡山田城を攻めて敗る、280
後土御門文明一四年九月二一日1482是より先、山城醍醐寺理性院宗典、伊那郡文永寺に下向し、同寺密乗院宗詢に法流を伝授す、是日、宗典、宗詢に書信を通じ、法流相承のことを依嘱す、281
後土御門文明一四年一〇月一七日1482小県郡定津院開山宗英、拈笑、丹波永沢寺に寂す、尋で、定津院に葬る、282
後土御門文明一四年一一月二二日1482諏訪社上社神使等精進始、285
後土御門文明一四年一二月九日1482諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、285
後土御門文明一四年1482さきに上洛せる越後守護上杉房定の使節同国円通寺住持徳林、岳英、帰国せんとす、諸五山の尊宿等、詩を作りて之に餞す、信濃の僧良信、義海、その員に与る、286
後土御門文明一四年1482諏訪郡内、夜討物取横行し、また、大水害あり、288
後土御門文明一五年正月一日1483諏訪社上社、神使御頭を定む、289
後土御門文明一五年正月八日1483諏訪社上社大祝諏訪継満、惣領同政満・宮若丸父子等を同社神殿に殺し、その所領を奪ふ、289
後土御門文明一五年1483相摸禅興寺明月院塔主英璵、玉隠、和歌三尊の像に賛す、294
後土御門文明一五年二月二日1483諏訪社上社外県神使精進始、尋で、内県並に大県神使等精進始、297
後土御門文明一五年二月三日1483安曇郡穂高社大檀那大伴盛知、同社式年造宮課役を、同郡諸郷に充つ、298