長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻十三 (300頁~)
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正親町
永禄一二年四月七日
1569
是より先、将軍足利義昭、甲越の和睦を勤む、武田信玄、北条氏康を討たんがため、その勧めに随はんとして、織田信長の斡旋を望む、是日、義昭、上杉輝虎に命じて信濃出陣を停め、信玄と和せしめんとす、
300
正親町
永禄一二年四月七日
1569
諏訪社上社四月会、
302
正親町
永禄一二年四月八日
1569
小県郡東昌寺住持総芸、才応、同寺の法衣を新調す、
303
正親町
永禄一二年四月二四日
1569
武田信玄、北条氏康のため駿河薩埵山に敗れ、兵を甲斐に撤す、氏康・氏政父子、之を上杉輝虎に報じ、その信濃出陣を求む、尋いで、氏政、遠山康光等を上野新田に遣はし、輝虎の将松本景繁等と、越・相和睦のことを議せしむ、
304
正親町
永禄一二年
1569
青柳清長、同加賀守に筑摩郡麻績等の地を宛行ふ、
308
正親町
永禄一二年
1569
某、伊那郡白山権現社を造立す、
308
正親町
永禄一二年五月五日
1569
諏訪社上社五月会、
309
正親町
永禄一二年五月七日
1569
相国寺鹿苑院塔主集尭、仁如、同院領の田地を同寺大智院に沽却す、
309
正親町
永禄一二年五月一七日
1569
是より先、総芸、才応、筑摩郡長興寺・小県郡東昌寺を開く、是日、総芸、寂す、
310
正親町
永禄一二年六月六日
1569
相国寺鹿苑院塔主集尭、仁如、建仁寺十如院の徒永忠文渓、を同寺住持とすべきことを幕府に推挙す、
315
正親町
永禄一二年六月一六日
1569
武田信玄、甲斐・信濃の兵を率ヰて、駿河古沢に迫る、是日、北条氏康・同氏政父子、上杉輝虎に、信濃出兵を求む、
316
正親町
永禄一二年六月二一日
1569
武田信玄、伊那郡小河・牛牧両郷の百姓をして、同郷の堤防を修築せしむ、
319
正親町
永禄一二年七月二日
1569
武田信玄、甲斐・信濃の兵を率ヰて、駿河大宮城を攻め、之を陥る、
319
正親町
永禄一二年七月二五日
1569
諏訪社上社七月會、
321
正親町
永禄一二年七月二九日
1569
上杉輝虎、鮎川盛長に信濃出兵の延期を報じ、信濃口の備を厳にせしむ、
322
正親町
永禄一二年
1569
伴野信是、佐久郡野沢郷八幡宮に、鰐口を寄進す、
323
正親町
永禄一二年八月二日
1569
正親町天皇、旧に依り、諏訪社上社の社官列座の制を定む、
323
正親町
永禄一二年八月四日
1569
武田信玄、安曇郡曽祢原甚五郎に地を与ふべきを約す、尋いで、浦野重秀に、上野に於いて所領を宛行ふ、
325
正親町
永禄一二年八月一〇日
1569
武田信玄、佐久郡大井満安に知行を給し、上野箕輪城在城を命ず、
326
正親町
永禄一二年八月一一日
1569
武田信玄、諏訪左衛門尉等を、筑摩郡北栗林の地頭となす、
327
正親町
永禄一二年八月二三日
1569
是より先、上杉輝虎、越中に攻入り、新庄・金山等の諸城を陥る、是日、輝虎、直江景綱・本庄美作守に、水内郡飯山・野尻・高井郡市川及び越後弥知口等の警戒を厳にすべきを命ず、 謙信の栗林二郎左衛門尉宛の書状
327
正親町
永禄一二年九月一〇日
1569
武田信玄、信濃等の兵を率ヰて、西上野に入り、是日、武蔵鉢形城に北条氏邦を攻む、
330
正親町
永禄一二年九月三〇日
1569
北条氏康、上杉輝虎に、越中椎名康胤を赦し、信濃・甲斐を攻めしめんことを申入る、
331
正親町
永禄一二年一〇月六日
1569
是より先、武田信玄、碓氷峠を越え、上野・武蔵を経て相摸に入り、小田原城に放火して退く、是日、北条氏政の兵、信玄を追撃して、同国三增峠に戦ふ、浦野重秀、信玄の軍に加はり戦死す、
332
正親町
永禄一二年一〇月一二日
1569
武田信玄、高井郡市川信房等に軍令を頒つ、
338
正親町
永禄一二年一〇月一六日
1569
北条氏康、上杉輝虎に武田信玄の相摸退陣を報じ、併せて信濃出兵を求む、
341
正親町
永禄一二年一〇月二一日
1569
須坂市普願寺の聖徳太子像の修理、成る、
342
正親町
永禄一二年一〇月二四日
1569
是より先、前山城真如寺住持瑞延、祐谷、寂す、是日、闍維仏事あり、相国寺鹿苑院塔主集尭、仁如、その法会に臨み、詩をつくりて追悼す、
343
正親町
永禄一二年一一月七日
1569
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
343
正親町
永禄一二年一一月九日
1569
武田信玄、駿河に攻入らんとし、駿河・伊豆両国の併呑及び越後の潰乱を、諏訪社に祈る、
344
正親町
永禄一二年一一月一三日
1569
北条氏康、同氏政、上杉輝虎に、信濃に出兵し、武田信玄を牽制せんことを請ふ、
345
正親町
永禄一二年一一月一八日
1569
武田信玄、井口帯刀左衛門尉に、安曇郡仁科領内の地を知行せしむ、
349
正親町
永禄一二年一一月二一日
1569
西条祐意、埴科郡西条大国明神本殿を造立す、
350
正親町
永禄一二年一二月六日
1569
武田信玄、駿河蒲原城を陥れ、その旨を真田幸隆・同信綱に報ず、尋いで、武田勝頼、戦勝を諏訪社上社に謝す、 武田勝頼、駿河湯沢の鎮定を諏訪社上社に謝す、
351
正親町
永禄一二年一二月一〇日
1569
武田信玄、織田信長に属して、上杉輝虎の信濃出兵を中止せしめんと計る、
353
正親町
永禄一二年一二月一五日
1569
今川氏真、使を上杉輝虎に遣はし、その関東出陣を謝し、併せて甲斐・信濃出兵のことを求む、
354
正親町
永禄一二年
1569
東筑摩郡麻績神明宮の懸仏、成る、
355
正親町
元亀元年正月二日
1570
武田信玄、千蔵坊の所領佐久郡阿加留観音堂を同郡神光寺に寄進し、千蔵坊には小県郡海野の地に於いて替地を給す、
356
正親町
元亀元年正月一五日
1570
是より先、上杉輝虎、佐野昌綱を下野佐野城に攻む、是日、北条氏政の将遠山康光、輝虎の臣山吉豊守に書を送り、輝虎の信濃に出兵せざるを難ず、
357
正親町
元亀元年二月一五日
1570
佐久郡貞祥寺開山徳忠、節香、寂す、
358
正親町
元亀元年二月一八日
1570
北条氏康・同氏政、起請文を上杉輝虎に送りて盟約を誓ひ、且つ兵を信濃または西上野に出して、武田信玄の勢を牽制せんことを求む、
361
正親町
元亀元年三月四日
1570
武田信玄、筑摩郡深志在城衆をして、祢津紀伊守子息等の人質を返さしむ、
363
正親町
元亀元年三月五日
1570
武田信玄、諏訪郡河西肥後守の戦功を賞す、
364
正親町
元亀元年三月一〇日
1570
小笠原信貴、伊那郡長石寺を創建し文永寺僧宗信、その供養を行ふ、
364
正親町
元亀元年三月一六日
1570
相国寺鹿苑院塔主集尭、仁如、同寺慈照院梅岑軒の徒周瀑廬英、の秉炬仏事を勤む、
365
正親町
元亀元年三月一八日
1570
諏訪社上社三月会、
366
正親町
元亀元年三月二九日
1570
色部宮内助等、小県郡東昌寺に法被を寄進す、
367
正親町
元亀元年四月七日
1570
諏訪社上社四月会、
368
正親町
元亀元年四月一四日
1570
武田信玄、伊豆に侵入せんとし、春日虎綱に、信濃・上野の兵を率ヰて出陣すべきことを命ず、尋いで、北条氏政、上杉輝虎に、信濃に侵入して、信玄を牽制せんことを請ふ、
369
正親町
元亀元年四月一五日
1570
結制、相国寺住持集尭、仁如、上堂説法す、
371
正親町
元亀元年四月二〇日
1570
是より先、諏訪社上社神長守矢信真、小井弖越前・山中藤助の同社御左口神上下の用銭等を懈怠するを、武田信玄に訴ふ、是日、信玄、之を裁し、両人に弁済を命ず、
374
正親町
元亀元年五月一日
1570
武田信玄、立屋彦四郎をして、水内郡桜郷内の本領を安堵せしめ、更に同地に於いて、新知行を宛行ふ、
375
正親町
元亀元年五月五日
1570
諏訪社上社五月会、
376
正親町
元亀元年
1570
伊那郡文永寺宗然、太元師法作法を書写す、
377
正親町
元亀元年七月七日
1570
前小県郡定津院住持同郡全芳院開山宗長、年室、寂す、
377
正親町
元亀元年七月二五日
1570
諏訪社上社御射山祭、
378
正親町
元亀元年七月二八日
1570
権大僧都法印曽朝、小県郡長命寺に於いて、山城醍醐寺理性院尭雅より、伝法潅頂を受く、
379
正親町
元亀元年
1570
相国寺住持集尭、仁如、山城妙心寺霊雲院の徒玄津月航、の請に応じて、その所持の盆石の詩を賦す、
381
正親町
元亀元年
1570
高井郡玉井某、弾右衛門尉に、水内郡島津孫五郎、左京亮にそれぞれ任ぜらる、 平林正恒、蔵人佑に任ぜらる、
382
正親町
元亀元年八月一二日
1570
是より先、武田信玄、同勝頼と共に、甲斐・信濃等の兵を率ヰて、伊豆韮山城を囲む、是日、北条氏政、援を上杉輝虎に請ふ、
383
正親町
元亀元年八月一三日
1570
是より先、上杉輝虎、山吉豊守をして、北条氏邦と、出兵のことを議せしむ、是日、北条氏政、輝虎の碓氷峠を越えて上野に出陣せば、氏政も同陣すべき旨を輝虎に報ず、
387
正親町
元亀元年八月一六日
1570
佐久郡安養寺存覚、武田信玄の尋ねに応じ、同寺寺領年貢のことを注進す、
389
正親町
元亀元年八月二八日
1570
武田信玄、安曇郡曽祢原又次郎に、知行を宛行ふ、
389
正親町
元亀元年八月三〇日
1570
武田勝頼、信濃の諸士をして、駿河沼津城の普請を勤めしむ、
390
正親町
元亀元年九月一日
1570
武田信玄、水内郡飯繩社に社領を寄進し、また、鈩与助・立屋勘解由左衛門尉・桜孫左衛門尉等に水内郡内の地を宛行ふ、
391
正親町
元亀元年九月三日
1570
今川氏真、上杉輝虎の信濃出兵のことを謝す、
395
正親町
元亀元年九月六日
1570
武田信玄、栗田鶴寿をして本領を安堵せしめ、新知行として、水内郡千田・市村を宛行ふ、
396
正親町
元亀元年九月七日
1570
北条高広、上杉輝虎の臣山吉豊守に書を送り、輝虎の上野出陣を謝し、併せて、武田信玄佐久郡岩村田に着陣の風聞を報ず、
397
正親町
元亀元年九月八日
1570
武田信玄、安曇郡泉福寺に禁制を掲ぐ、
399
正親町
元亀元年九月九日
1570
武田信玄、信濃より関東に出陣せんとし、甲斐諏訪社に上杉輝虎撃滅を祈る、
399