長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻十三 (500頁~)
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正親町
元亀三年四月八日
1572
武田信玄、諏訪郡北大塩・上桑原両郷をして、諏訪社上社一の御柱引を勤仕せしむ、
500
正親町
元亀三年四月一一日
1572
佐久郡竜雲寺全祝、北高、武田信玄の請により、同寺二千衆結制を行はんとし、その準備を整ふ、是日、信玄、竜雲寺に書を送り、その盛大を喜び、自後制中参学厳格ならんことを要請す、
500
正親町
元亀三年四月一七日
1572
諏訪社上社大宮の御柱立、
507
正親町
元亀三年五月五日
1572
諏訪社上社五月会、
508
正親町
元亀三年五月八日
1572
武田信玄、諏訪社下社神宮寺井坊の同社千手堂建立を励むにより、徳役を免除す、
508
正親町
元亀三年五月一八日
1572
武田信玄、甲斐長禅寺より小県郡塩田に至る間の諸宿に命じて、瑞雲院の輿舁人夫を出さしむ、
509
正親町
元亀三年六月一日
1572
武田信玄、筑摩郡長興寺をして、寺領を安堵せしむ、 信玄、長興寺をして寺領を安堵せしむ、
510
正親町
元亀三年六月九日
1572
武田信玄、諏訪社上社神長守矢信真に、分国中一月に馬壱疋分の通過を許す、
511
正親町
元亀三年六月一五日
1572
上杉謙信、願文を看経所に納め、加賀・越中一向一揆の鎮定・信濃等分国の平安を祈る、
511
正親町
元亀三年六月二一日
1572
諏訪社上社神長守矢信真、同社本年神使御頭の費用を市川昌房に注進す、
512
正親町
元亀三年七月一〇日
1572
小県郡信綱寺開山・同郡安楽寺中興開山順京、高山、高井郡興国寺開山清嫰桂室、に嗣法す、
516
正親町
元亀三年七月二五日
1572
武田信玄、筑摩郡正行寺・極楽寺・安養寺等大坂本願寺門徒坊主衆に、同郡深志城普請以下の諸役を免除す、
516
正親町
元亀三年七月二六日
1572
是より先、武田信玄、山城曼殊院覚恕の斡旋により、権僧正に任ぜらる、是日、信玄、覚恕に之を謝し、また、その使者慈光坊に信濃に於いて地を寄進せんことを約す、
517
正親町
元亀三年七月
1572
諏訪社上社御射山祭、
520
正親町
元亀三年七月二九日
1572
一向一揆、村上国清の加賀の営を襲ふ、尋いで、河田長親、国清を援け、一揆軍を奔らす、
520
正親町
元亀三年七月三〇日
1572
武田信玄、祢津松鷂軒信直、等に令して、分国より追放せる百姓等の徘徊する者を召捕らしむ、
521
正親町
元亀三年
1572
相国寺鹿苑院塔主集尭、仁如、建仁寺永源庵塔主永宋玉峯、の請に応じて、当世に吟玩せられたる和歌三十二首を書写す、
523
正親町
元亀三年八月二日
1572
武田信玄、高井郡大滝宮内左衛門尉に、駿河加島の内の地を宛行ふ、
523
正親町
元亀三年八月
1572
上泉信綱、諏訪郡千野昌房に、武技を伝授す、
524
正親町
元亀三年八月五日
1572
武田信玄、佐久郡津金寺の天台宗を改宗するを停止せしむ、
525
正親町
元亀三年八月一〇日
1572
相国寺鹿苑院塔主集尭、仁如、伏見宮貞敦親王の掩土仏事を修す、
525
正親町
元亀三年八月一一日
1572
武田信玄、北条氏政と協力して、関東に出陣せんとし、水内郡葛山衆の軍役を定む、
527
正親町
元亀三年
1572
伊那郡知久頼氏、香坂右近介に、伊那郡下村・毛呂窪の地を宛行ふ、
529
正親町
元亀三年九月一七日
1572
飛騨江馬輝盛、越中の上杉謙信の陣に到り、村上国清に迎へらる、
529
正親町
元亀三年九月一八日
1572
武田信玄の信濃より越後に攻入らんとすとの風聞あるに依り、上杉謙信、長尾顕景・山吉豊守等に命じ、春日山城の警備を厳にせしむ、
530
正親町
元亀三年九月二六日
1572
是より先、木曽山村良利、武田信玄に応じ、飛騨の調略を励む、是日、信玄、その功を賞す、尋いで、良利及びその子良候に所領を宛行ふ、
532
正親町
元亀三年九月
1572
武田信玄、遠藤胤勝に、信濃に於いて知行を宛行ふ、
534
正親町
元亀三年九月二八日
1572
武田信玄、伊那郡文永寺に同郡南原の地を寄進し、且つ同寺宗然をして、甲府に文永寺を建立し、武運長久を祈らしめんとす、
534
正親町
元亀三年一〇月八日
1572
武田信玄、神尾宗大夫をして、遠江の本領を安堵せしむ、
535
正親町
元亀三年一〇月二七日
1572
相国寺鹿苑院塔主集尭、仁如、諏訪晴長の請に応じて、扇面に賛す、
536
正親町
元亀三年
1572
武田信玄の将秋山信友、伊那の軍勢を率ヰて、美濃岩村城を陥る、尋いで、信玄、下条信氏をして同城を守らしむ、
536
正親町
元亀三年一一月一二日
1572
諏訪社上社大宮御柱引、
539
正親町
元亀三年一一月二〇日
1572
織田信長、上杉謙信の請を容れ、協力して武田信玄を信濃に攻めて討滅せんことを図る、
539
正親町
元亀三年一一月二六日
1572
是より先、武田信玄、美濃岩村大円寺住持玄密希庵、を甲斐恵林寺住持に請ず、玄密、これに応ぜず、是日、信玄、秋山信友及び伊那郡松沢源五郎等をして、之を殺さしむ、
541
正親町
元亀三年一二月五日
1572
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
543
正親町
元亀三年一二月一三日
1572
諏訪社上社、同社明年神使御頭を定む、
544
正親町
元亀三年一二月二二日
1572
武田信玄、信濃・甲斐の兵を率ヰ、遠江三方原に、徳川家康の軍を破る、
545
正親町
元亀三年一二月二七日
1572
武田勝頼、遠江二俣城の条目を定め、筑摩郡山家某等をして、同城に在番せしむ、
546
正親町
元亀三年
1572
埴科郡豊泉寺住持全林、旃室、同寺を退き、佐久郡貞祥寺に帰院し、徳応、喚室、豊泉寺に住す、
548
正親町
元亀三年
1572
小県郡定津院住持玄忠、大休、甲斐大慈院に遷住す、
548
正親町
元亀三年
1572
本願寺光佐、顕如、埴科郡本誓寺顕智に、親鸞上人の書せる名号に裏書を付し与ふ、
549
正親町
元亀三年
1572
是より先、相国寺鹿苑院塔主集尭、仁如、東福寺宝勝院松月軒主聖澄月渓、の発起によつて、蒲室疏を講ず、是歳、講了し、聖澄の請に応じて、その抄に識語を記す、
549
正親町
天正元年正月二七日
1573
武田信玄、筑摩郡山家左馬允の戦功を賞す、 山家頼広の書状
552
正親町
天正元年
1573
相国寺鹿苑院塔主集尭、仁如、前東福寺住持光秀蘭圃、の門弟等の請に応じて、光秀の頂相に賛す、
553
正親町
天正元年二月三日
1573
仁科盛棟、安曇郡諸郷に命じて、同郡穂高社の造宮を勤めしむ、
555
正親町
天正元年二月四日
1573
是より先、武田信玄、三河野田城を攻め、城将菅沼定盈等を生捕りて、信濃に送る、是日、徳川家康、野田城を撃たんとして、上杉謙信に信濃出兵を促す、
562
正親町
天正元年二月一三日
1573
相国寺鹿苑院塔主集尭、仁如、医師吉田牧庵の寿像に賛す、
564
正親町
天正元年三月一七日
1573
諏訪社上社三月会、
566
正親町
天正元年
1573
上野沼田・厩橋の兵、上杉謙信に加勢して、同国白井城を陥る、上杉憲景、同城に入り、西上野の真田幸隆の領地を侵す、
567
正親町
天正元年四月七日
1573
諏訪社上社四月会、
568
正親町
天正元年四月一二日
1573
是より先、武田信玄、三河陣中に病み、信濃に兵を納めんとす、是日、信玄、伊那郡駒場に卒す、 信玄の書状 信玄の田上掃部宛の安堵状
569
正親町
天正元年四月二〇日
1573
上杉謙信、越中より、越後に帰り、越中在陣の諸将に信濃方面等の情報を伝ふ、尋いで、常陸小田守治に書を送り、武田信玄・北条氏政討滅のため、協力を求む、
584
正親町
天正元年四月二五日
1573
河上富信、上杉謙信の将河田長親に、武田信玄死去の風聞を報ず、
585
正親町
天正元年
1573
筑摩郡千鹿頭社御柱立、
587
正親町
天正元年五月五日
1573
諏訪社上社五月会、
588
正親町
天正元年五月二八日
1573
武田信綱、千野忠隆の戦功により、舎弟忠清を還俗せしめ、その名跡を嗣がしむ、 武田信綱より千野昌房宛の書状
588
正親町
天正元年
1573
信濃の住人御鳥某、不動講を書写す、
590
正親町
天正元年六月一九日
1573
相国寺鹿苑院塔主集尭、仁如、前山城等持寺住持相国寺鹿苑院蔭涼軒主景俊継之、の秉炬仏事を勤む、
591
正親町
天正元年七月六日
1573
武田勝頼、小笠原信嶺に、遠江井伊谷の地を宛行ふ、
593
正親町
天正元年七月九日
1573
是より先、上杉謙信、徳川家康に信濃・甲斐出兵を求む、是日、家康、之を諾し、織田信長の出兵をも促すべきを答ふ、
594
正親町
天正元年七月一〇日
1573
高井郡興国寺住持順京、高山、順尭に付法す、
594
正親町
天正元年七月一五日
1573
安曇郡満願寺住持尊応、二世求願の修法を行ふ、
595
正親町
天正元年七月二三日
1573
村上国清、越中にありて、上杉謙信の臣吉江資堅に書を送り、武田信玄の死及び諸国の情勢等を報ず、
596
正親町
天正元年七月二六日
1573
諏訪社上社御射山祭、
597
正親町
天正元年八月一七日
1573
是より先、小県郡室賀信俊、三河長篠に篭城す、是日、壱叶等、信俊の無事を、同郡下之郷大明神生嶋足嶋神社、に祈る、
597
正親町
天正元年八月一九日
1573
武田勝頼、大日方佐渡守をして、所領を安堵せしむ、 武田勝頼、河西但馬守に地を宛行ふ、
598
正親町
天正元年八月二四日
1573
木曽義昌、原平左衛門尉に、美濃坂下の地を宛行ふ、
599
正親町
天正元年八月二五日
1573
前山城妙心寺住持宗休大休、廿五年忌、その徒同寺住持玄津、月航、追悼の頌をつくる、相国寺鹿苑院塔主集尭、仁如、その韻を和す、
599
正親町
天正元年
1573
是より先、幕府、前相摸禅興寺住持顕良籌叔、を建長寺住持となす、是月、相国寺鹿苑院塔主集尭、仁如、道旧の疏をつくりて之を賀す、
600
正親町
天正元年九月八日
1573
是より先、徳川家康、三河に入り、室賀信俊等を、同国長篠城に攻む、武田勝頼、信濃勢等をして、信俊等を授けしめんとす、是日、長篠城陥り、信俊、同国鳳来寺に奔る、
602
正親町
天正元年九月一二日
1573
武田勝頼、文永寺宝幢院の条規を定む、
604
正親町
天正元年九月一五日
1573
是より先、正親町天皇、宗陳古渓、を山城大徳寺住持となす、是日、宗陳、入院す、相国寺鹿苑院塔主集尭、仁如、大徳寺の一衆に代りて、山門の疏をつくりて、之を迎請す、
605
正親町
天正元年九月一六日
1573
武田勝頼、佐久郡正安寺を小山田昌辰の位牌所とし、同寺をして所領を安堵せしむ、
606
正親町
天正元年九月二一日
1573
是より先、三河作手城主奥平貞能・信昌父子、武田勝頼に背きて徳川家康に通じ、同国滝山に移る、是日、勝頼の兵、之を撃ちて敗る、 奥平喜八郎、伊那郡大島在城中の勝頼に矢の根等を送る、
607
正親町
天正元年一〇月五日
1573
武田勝頼、奈良井治部少輔をして、木曽谷中の闕落せる百姓を召還さしむ、
610
正親町
天正元年一一月一四日
1573
武田勝頼、赤見昌泰に、佐久郡内の地を宛行ふ、
611
正親町
天正元年一一月二二日
1573
真田信綱、河原又次郎に、綱家の名乗を許す、
611
正親町
天正元年一一月二八日
1573
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
612
正親町
天正元年
1573
是より先、佐久郡城光院住持玄琳、大圭、同寺に江湖会を催し、諸方雲衲を安居す、是月、玄琳、その記録を撰す、
613
正親町
天正元年一二月一三日
1573
諏訪社上社、同社明年の神使御頭を定む、
614
正親町
天正元年
1573
佐久郡竜雲寺住持全祝、北高、永厳首座の需に応じ、道号を与へ、その頌をつくる、
615
正親町
天正元年
1573
相国寺鹿苑院塔主集尭、仁如、常陸正宗寺の徒玄茂騰甫、の請に応じて、その斎名を与へ、その記をつくる、
616