長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻十三 (400頁~)
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正親町
元亀元年九月一七日
1570
武田信玄、関大蔵左衛門尉をして、本領水内郡南高田郷内の地を安堵せしむ、
400
正親町
元亀元年九月
1570
武田信玄、伊那郡大草郷等をして、明年三月以後の諏訪社上社御頭役を勤めしむ、
401
正親町
元亀元年九月二三日
1570
春芳代官惣助等、諏訪社上社神長守矢信真に、その知行地の年貢を進む、
402
正親町
元亀元年九月
1570
武田信玄、小県郡西光寺の、門前百姓三人分の課役を免ず、
403
正親町
元亀元年
1570
武田信玄、滝沢四郎左衛門尉に、二百貫文の地を宛行ふ、
404
正親町
元亀元年
1570
相国寺鹿苑院塔主集尭、仁如、諏訪晴長の請に応じて、亡父長俊の肖像に賛す、
405
正親町
元亀元年
1570
相国寺鹿苑院塔主集尭、仁如、詩をつくりて、前丹波高源寺住持鼎虎嘯岳、の筑前聖福寺に帰るに餞す、
407
正親町
元亀元年一〇月一日
1570
甲斐永昌院住持大奕謙室、佐久郡竜雲寺住持全祝北高、等、甲斐・信濃曹洞宗諸寺門徒の参学規式を定む、
408
正親町
元亀元年一〇月八日
1570
徳川家康、武田信玄と絶ち、上杉輝虎と盟約す、また、酒井忠次、村上国清に、石川数正、尾崎某に書を送り、好を通ず、
412
正親町
元亀元年一一月一六日
1570
冬至、相国寺住持集尭、仁如、上堂説法す、
415
正親町
元亀元年一一月二八日
1570
武田信玄、堤左近丞に、佐久郡中込郷の地を宛行ふ、
418
正親町
元亀元年一二月三日
1570
相国寺住持集尭、仁如、医師吉田牧庵の前相国寺住持妙安惟高、を追憶する詩の韻を和す、
419
正親町
元亀元年一二月四日
1570
武田信玄、更級郡東徳寺住持をして、旧に依り、寺務を沙汰せしむ、
420
正親町
元亀元年一二月一五日
1570
相国寺鹿苑院塔主集尭、仁如、同寺慈照院宜竹軒に於いて、同軒主周保有節、の催せる詩会に列す、
420
正親町
元亀元年一二月一八日
1570
相国寺鹿苑院塔主集尭、仁如、里村紹巴第の斎会に臨み、当座の詩をつくる、
421
正親町
元亀元年一二月二三日
1570
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
422
正親町
元亀元年一二月二七日
1570
水内郡信叟寺住持豊隆興山、の法衣の調製、成る、
423
正親町
元亀二年正月一日
1571
相国寺住持集尭、仁如、上堂説法す、
424
正親町
元亀二年正月五日
1571
天竜寺妙智院塔主周良、策彦、詩を聖護院門跡道澄法親王に呈す、尋いで、相国寺住持集尭、仁如、その韻を和す、
427
正親町
元亀二年正月一一日
1571
武田信玄、伊那郡下伊那宿地下人の、駿河へ参陣せるものに普請役を免除す、
428
正親町
元亀二年二月一三日
1571
武田信玄、信濃の人保科善左衛門尉に、諸役を免除す、
429
正親町
元亀二年二月一四日
1571
武田信玄、安曇郡西牧郷等をして、諏訪社上社頭役を勤仕せしむ、
429
正親町
元亀二年
1571
肥後磐根木山法印円祐、諏訪社下社春宮平福寺極楽坊快宥に、神道を伝授す、
430
正親町
元亀二年三月一一日
1571
諏訪社上社三月会、
431
正親町
元亀二年三月一三日
1571
武田信玄、同信実に、伊那郡今村郷等の地を宛行ひ、また、その子息に民部少輔の女を配して、民部少輔遺跡を嗣がしむ、 民部少輔老母宛の武田勝頼安堵状 河西民部左衛門宛の武田信玄朱印状
432
正親町
元亀二年三月一七日
1571
武田信玄、秋山信友をして、伊那郡飯沼郷等の人足を徴し、同郡大島城の普請に当らしむ、
435
正親町
元亀二年三月一八日
1571
小笠原長時、京都に寓す、是日、長時、山科言継を訪ふ、
436
正親町
元亀二年三月二五日
1571
武田信玄、相摸を侵さんとすとの風説あり、是日、北条氏政、上杉謙信に之を報じ、その信濃口あるいは上野口への出兵を請ふ、
436
正親町
元亀二年四月七日
1571
諏訪社上社四月会、
437
正親町
元亀二年四月一九日
1571
武田信玄・同勝頼父子、信濃より三河に入り、鈴木重直を足助城に攻めて、是日、之を降す、尋いで、伊那郡下条信氏をして、同城に番せしむ、
438
正親町
元亀二年四月
1571
北条氏康、甲・相和議の訛伝を上杉謙信に弁疏し、麦秋を期して西上野あるいは信濃へ出兵し、救援せんことを請ふ、
440
正親町
元亀二年四月二九日
1571
是より先、山県昌景、小笠原信嶺等と共に三河野田城を攻落す、是日、昌景等、同国吉田城を攻落す、
442
正親町
元亀二年
1571
相国寺住持集尭、仁如、同寺を退院して、同寺鹿苑院塔主となる、
443
正親町
元亀二年五月五日
1571
諏訪社上社五月会、
444
正親町
元亀二年五月一九日
1571
足利義昭、亡兄義輝の七周忌仏事を相国寺光源院に修し、同寺鹿苑院塔主集尭仁如、をして陞座説法せしむ、
444
正親町
元亀二年六月一二日
1571
武田信玄、分国中諸関をして、安曇郡小谷衆十八人を勘過せしむ、
456
正親町
元亀二年七月二日
1571
武田信玄、加藤与五右衛門尉の本領佐久郡田口郷を収め、替地として、上野板鼻の内の地を宛行ふ、
457
正親町
元亀二年七月三日
1571
武田信玄、信濃の人千野某に遠江の戦況を報じ、併せて近日越後出陣の意あるを伝ふ、
458
正親町
元亀二年七月二六日
1571
諏訪社上社御射山祭、
458
正親町
元亀二年八月二五日
1571
山城聖護院門跡道澄、佐久郡法華堂祐源に、金襴地袈裟の着用を許す、
459
正親町
元亀二年
1571
諏訪社下社、同社明年五月会頭役を、安曇郡大輪田郷に充つ、
460
正親町
元亀二年
1571
正親町天皇、鼎韺茂林、を丹波高源寺住持となす、相国寺鹿苑院塔主集尭、仁如、高源寺の一衆に代りて、山門の疏をつくりて、その駕を迎ふ、 集尭の鼎韺と袂別するの詩をつくる、
461
正親町
元亀二年九月七日
1571
村上国清、松平親乗に書を送り、謙信と家康との和親の渝ることなからんことを通ず、
463
正親町
元亀二年九月二二日
1571
伊那郡光明寺鎮守六所権現の社殿、成る、
464
正親町
元亀二年九月二三日
1571
真田昌幸、上野白井城の長尾憲景を攻めて、之を奔らす、是日、信玄、その功を賞す、
465
正親町
元亀二年
1571
相国寺鹿苑院塔主集尭、仁如、南禅寺帰雲院塔主正稷華渓、の徒智瑛滑清、及び正五梅心、の請に応じて、各に道号を与へ、その頌をつくる、
467
正親町
元亀二年
1571
安曇郡満願寺尊応、同寺に於いて、日天法を修す、
468
正親町
元亀二年一一月二四日
1571
武田信玄、諏訪社上社明年頭役を、伊那郡山田等の諸郷に充つ、
469
正親町
元亀二年一一月二八日
1571
冬至、相国寺住持集尭、仁如、上堂説法す、 集尭、東福寺冬至秉払の頭首同寺海蔵院の徒恵瓊瑤甫、の為に、問話法語を代作す、
470
正親町
元亀二年一一月二九日
1571
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
475
正親町
元亀二年
1571
伊那郡開善寺住持宗販、速伝、同郡の栄受用戩、大姉俗姓名闕く、の為に逆修仏事を行ひ、その秉炬法語を書す、
476
正親町
元亀二年一二月一三日
1571
宗右衛門、姓闕く、宮下新左衛門に、田地屋敷を売渡す、
478
正親町
元亀二年
1571
北条氏政、上杉謙信と絶ち、武田信玄と和す、
479
正親町
元亀三年正月一日
1572
相国寺住持集尭、仁如、上堂説法す、
483
正親町
元亀三年正月七日
1572
武田信玄、浦野中務少輔の年賀に答へ、近く上野厩橋に出陣すべきを告ぐ、
488
正親町
元亀三年正月一一日
1572
相国寺鹿苑院塔主集尭仁如、等、幕府に歳首を賀す、
488
正親町
元亀三年二月四日
1572
信濃の僧補陀寺住持全致、大州、寂す、
489
正親町
元亀三年二月
1572
武田信玄、佐久郡岩村田御家人衆に命じ、宿中の人をして、同郡竜雲寺僧堂上葺萱を運上せしむ、
490
正親町
元亀三年二月一三日
1572
相国寺住持集尭、仁如、詩をつくりて、石見安国寺住持源閲の徒源周郁英、の同寺に帰り源閲を省覲するに餞す、
490
正親町
元亀三年二月三〇日
1572
武田信玄、佐久郡竜雲寺を、信玄分国の曹洞宗僧録となす、
491
正親町
元亀三年三月五日
1572
是より先、上杉謙信、徳川家康を存問す、是日、家康、之に答謝し、且つ村上国清にも書を送る、
493
正親町
元亀三年三月六日
1572
武田信玄、真田一徳斎幸隆、の上野白井城を攻略せるを嘉し、同国箕輪城に在番して、春日虎綱に協力すべきを命ず、
495
正親町
元亀三年三月一一日
1572
諏訪社上社三月会、
496
正親町
元亀三年三月二六日
1572
木曽定勝寺の風呂、成る、
496
正親町
元亀三年
1572
更級郡唯念寺門徒衆、大坂本願寺に篭城し、織田信長の軍と戦ふべきを誓ふ、
498
正親町
元亀三年四月七日
1572
諏訪社上社四月会、
499