長野県立歴史館 信濃史料
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西暦
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後陽成
天正一七年九月三日
1589
小笠原貞慶、溝口貞秀に起請文を送り、隔心なきを誓ふ、
1
後陽成
天正一七年九月三日
1589
小笠原貞政、秀政、松林和泉に、筑摩郡松本料所の内の地を宛行ふ、
2
後陽成
天正一七年九月九日
1589
是より先、豊臣秀吉、小笠原信嶺等に命じて、京都大仏殿の材料を駿河富士山より引かしむ、是日、信嶺の臣、三河野田衆と諍ふ、
3
後陽成
天正一七年九月一三日
1589
小笠原貞政、秀政、安曇郡満願寺に地を寄進し、造営を励ましむ、
3
後陽成
天正一七年九月一七日
1589
小笠原貞政、秀政、浅野久右衛門を、安曇郡千見城在番たらしめ、同郡稲尾の地を与ふ、
5
後陽成
天正一七年九月一九日
1589
小笠原貞政、秀政、安曇郡借馬の左近に、諸役を免じ、鷹打獲物を指上げしむ、
6
後陽成
天正一七年九月二〇日
1589
小笠原貞政、秀政、筑摩郡松本町の伝馬役勤仕人を定む、
6
後陽成
天正一七年
1589
徳川家康の臣菅沼定利、伊那郡虎岩村に検地を行ふ、
8
後陽成
天正一七年
1589
妙心寺前住持玄興、南化、木曽定勝寺の徒宗昆鉄船、の請に応じて、その師宗球天心、の頂相に賛す、
40
後陽成
天正一七年一〇月三日
1589
是より先、須田満親上洛し、豊臣秀吉に謁す、是日、満親、高井郡高井野大明神に大鷹を献じ、祈念成就を謝す、
41
後陽成
天正一七年一〇月七日
1589
小笠原貞政、秀政、沢渡盛忠の、安曇郡千見城在番の労を慰す、
42
後陽成
天正一七年一〇月七日
1589
小笠原貞政、秀政、中嶋刑部左衛門等に、筑摩郡野溝等の地を宛行ふ、
43
後陽成
天正一七年一〇月一三日
1589
是より先、葉山猪介、筑摩郡松本町の仕置を命ぜらる、是日、猪介、同町問屋倉科盛軌に令し、猪介等の許可なく、伝馬を出すを禁ず、
44
後陽成
天正一七年一〇月一四日
1589
伊那郡熊野社の再興、成る、
44
後陽成
天正一七年一〇月一五日
1589
高梨頼親、高井郡庄内八幡宮をして、社領を安堵せしむ、
45
後陽成
天正一七年一〇月二四日
1589
松平依田、康国、臼田藤吉に、佐久郡平井等の地を宛行ふ、
45
後陽成
天正一七年一一月二日
1589
松平依田、康国、丸山内匠助に、佐久郡平井等の地を宛行ふ、
46
後陽成
天正一七年一一月三日
1589
真田昌幸、折田軍兵衛等に、上野吾妻知行地の賛地として、伊那郡箕輪領内下寺郷の地を給す、
47
後陽成
天正一七年一一月二一日
1589
是より先、北条氏邦の兵、真田昌幸の属城上野名胡桃城を奪ふ、昌幸、之を豊臣秀吉に訴ふ、是日、秀吉、北条氏直の不義を怒りて、討伐を決意し、昌幸に、境目堅固に備ふべきを命ず、尋いで、諸大名に令して、小田原出陣の準備をなさしむ、
49
後陽成
天正一七年一一月二三日
1589
諏訪頼忠、柳沢主殿助に、諏訪郡浅倉の林を預く、
65
後陽成
天正一七年一一月二三日
1589
徳川家康、五味太郎左衛門の功を賞し、甲斐比野郷内の地を宛行ふ、
66
後陽成
天正一七年一一月二六日
1589
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
67
後陽成
天正一七年一二月一三日
1589
松平依田、康国、丸山内匠助の参陣の功を賞し、地を宛行ふ、
68
後陽成
天正一七年一二月一三日
1589
諏訪社上社、同社明年神使御頭を定む、
68
後陽成
天正一七年一二月一四日
1589
溝口貞秀、中嶋総次郎に、知行を与ふ、
69
後陽成
天正一七年一二月二三日
1589
佐久郡大宮社等の神領指出帳、成る、
70
後陽成
天正一七年一二月二四日
1589
是より先、安曇郡千見在城の沢渡盛忠、駿河在府の小笠原貞政秀政、に物を贈る、是日、貞政、之に答謝す、
77
後陽成
天正一七年一二月三〇日
1589
須田満親、従五位下に叙せられ、相摸守に任ぜらる、
78
後陽成
天正一七年
1589
豊臣秀吉、信濃国に禁制を掲ぐ、
79
後陽成
天正一七年
1589
徳川家康、信濃・甲斐等に検地を行ふ、
81
後陽成
天正一七年
1589
諏訪社上社、同社今年の頭役料を記す、
81
後陽成
天正一八年正月八日
1590
豊臣秀吉、北条氏を討たんとし、真田昌幸に出馬の時期を伝へ、併せて将軍の木曽口到着を待ちて、行動すべきを指図す、
83
後陽成
天正一八年正月九日
1590
豊臣秀吉、上杉景勝のために、信濃に将軍を送るべきを報じ、併せて、小笠原貞慶との争を停めしむ、
85
後陽成
天正一八年正月一二日
1590
保科正直、上島吉三に地を宛行ふ、
87
後陽成
天正一八年正月一七日
1590
伊那郡開善寺、同寺の徒元幸の知客転位官銭を請取る、
87
後陽成
天正一八年正月一九日
1590
木曽義昌、原彦八郎に、木曽上垣外分の地を宛行ふ、
88
後陽成
天正一八年正月二三日
1590
諏訪社上社、同社神使の御祓配り日記を注す、
89
後陽成
天正一八年正月二五日
1590
小笠原貞政、秀政、丸山丹後守に、安曇郡吉野・寺所両郷の地を宛行ふ、
90
後陽成
天正一八年
1590
菅沼定利、伊那郡知久平諏訪社及び八幡宮に神領を寄進し、また、三石亀太郎・中野吉左衛門をして本頼を安堵せしむ、
91
後陽成
天正一八年二月二日
1590
前田利家豊臣秀吉の命に依り、上杉景勝・真田昌幸等を先勢とし、信濃を経て上野に入らんとす、是日、利家、伊達政宗に之を報じ、出陣を促す、
94
後陽成
天正一八年
1590
小笠原貞慶、井口平八をして、父帯刀の給分並びに問屋役等を安堵せしむ、
99