長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻十七 (500頁~)
1頁~
100頁~
200頁~
400頁~
500頁~
「信濃史料」巻別収録年代に戻る
・ 綱文(記事)をクリックすると、綱文とその出典を掲載した画面が表示されます。
天皇
年月日
西暦
記事
頁
後陽成
文禄元年
1592
佐久郡玉窓院の再造、成る、
500
後陽成
文禄元年五月十二日
1592
小県郡禰津長左衛門尉、三松斉姓関く、に、鷹の秘術を伝授す、
501
後陽成
文禄元年五月十七日
1592
後陽成天皇、伊那郡大雄寺住持宗勤克焉、を、山城妙心寺住持となす、
502
後陽成
文禄元年六月六日
1592
石本三右衛門、諏訪郡の金子清林寺等をして、同郡後山金山の採掘を請負はしむ、
503
後陽成
文禄元年八月六日
1592
伊那郡の人保科正俊、卒す、
504
後陽成
文禄元年八月十日
1592
直江兼続、立岩喜兵衛をして、借米を石田三成に返却せしむ、
504
後陽成
文禄元年八月十八日
1592
増田長盛、人数改番をして、上杉景勝の臣高梨頼親手勢の者等の、朝鮮陣よりの帰国を勘過せしむ、
507
後陽成
文禄元年九月十一日
1592
飯田城主毛利秀頼、病む、仍りて、高遠城代勝斉、姓嗣く、諏訪社上社權祝矢嶋某をして、秀頼の平癒を祈らしむ。
508
後陽成
文禄元年九月十三日
1592
高梨頼親、立神藤八郎をして、神主職幷びに本領を安堵せしむ、
509
後陽成
文禄元年九月十五日
1592
高金左衛門、安曇郡借馬村左近の諸役を免ず、
510
後陽成
文禄元年九月十六日
1592
伊那郡文永寺宗然、飯田城主毛利秀頼のため、病気平癒の不動護摩を修す、
511
後陽成
文禄元年閏九月五日
1592
高遠城代勝斉、姓関く、伊那郡建福寺大門之宿北町分を建福寺門前となす、
512
後陽成
文禄元年閏九月十五日
1592
豊臣秀吉、木曽伐採の柾板を近江朝妻に駄送せしむ、
513
後陽成
文禄元年閏九月十七日
1592
飯田城主毛利秀頼、卒す、尋いで、秀頼の婿高極高知、秀頼の遺領を領す、
515
後陽成
文禄元年
1592
金丸與八郎、高井郡小菅山に鰐口を寄進す、
520
後陽成
文禄元年十一月三日
1592
京極高知、西尾喜右衛門尉に、伊那郡に於いて知行を與ふ、
520
後陽成
文禄元年十一月十二日
1592
伊那郡鎮西野薬師堂の修理、成る、
522
後陽成
文禄元年十一月十七日
1592
勝斉、姓関く、伊那郡建福寺に、故毛利秀頼のため、茶湯料所地を寄進す、
523
後陽成
文禄元年十一月十九日
1592
京極高知、伊那郡飯嶋等の條規を定む、
523
後陽成
文禄元年十一月二十日
1592
山城妙心寺、伊那郡開善寺の徒善三の、知客転職の官錢を請取る
525
後陽成
文禄元年十一月二十六日
1592
中村源左衛門等、筑摩郡麻績神明宮の鰐口を鋳造す、
526
後陽成
文禄元年
1592
諏訪社上社の普賢菩薩像、成る、
526
後陽成
文禄元年十二月二日
1592
石川三長、康長、筑摩郡本立寺に、同寺居屋敷年貢竝びに諸役を免ず、
527
後陽成
文禄元年十二月五日
1592
仙石秀康、秀久、武者又左衛門に、佐久郡に於いて知行を宛行ふ、
528
後陽成
文禄元年十二月七日
1592
豊臣秀吉、真田信幸の伏見城普請役を免除し、領内の開発を致さしむ、
529
後陽成
文禄元年十二月九日
1592
浅野長継、日根野高吉をして、諏訪郡青柳の金山のことを沙汰せしむ、
530
後陽成
文禄元年十二月十四日
1592
是より先、松本城主石川康正、卒す、是日、京都七條河原に葬礼あり、
530
後陽成
文禄元年十二月十七日
1592
豊臣秀吉の奉行前田玄以等、真田信幸に伏見城普請を命ず
534
後陽成
文禄元年十二月二十四日
1592
豊臣秀吉、伏見城普請のため、昆野下野守等をして、木曽木材の運送を奉公せしむ、
540
後陽成
文禄元年正月十五日
1592
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
542
後陽成
文禄元年正月二十六日
1592
前野兵庫、木曽にて伐採せる材木の改帳を、豊臣秀吉に差出す、
543
後陽成
文禄元年正月二十七日
1592
高井郡龍泉寺前住持正佶、樂翁、法衣を某に譲る、
543
後陽成
文禄元年二月九日
1592
伊那郡の人上野補陀寺住持廣淋、荊室、同寺を享寅鐡州に譲り、伊那郡高遠に退く、尋いで、京極高知の請に依り、同郡桂泉院を中興す、
545
後陽成
文禄元年二月十九日
1592
仙石秀康、秀久、佐久郡龍雲寺門前の地の諸役を免ず、
546
後陽成
文禄元年二月二十四日
1592
是より先、須田満親、徳川家康に歳暮を賀す、是日、家康、之に答謝す、
547
後陽成
文禄元年
1592
水内郡戸隠社の建立、始まる、
548
後陽成
文禄元年
1592
吉田盛定、鉄砲の大事等を書して、水内郡屋嶋籐三郎に與ふ、
551
後陽成
文禄元年
1592
高梨頼親、舟丸某に、高井郡牛出村の地を宛行ふ、
552
後陽成
文禄元年三月六日
1592
渡辺長次、筑摩郡源智井の不浄を停む、尋いでまた、石川三長、康永、同井の不浄を停む、
552
後陽成
文禄元年三月十一日
1592
石川三長、康長、豊受皇大神宮御師丸岡宗大夫をして、同神宮神領筑摩郡並柳村の地を安堵せしむ、
553
後陽成
文禄元年三月十一日
1592
山城醍醐寺三宝院堯助、伊那郡文永寺宗然に、伝法灌頂許可印信を授く、
555
後陽成
文禄元年三月十二日
1592
京極高知、嶋志摩に舊の如く田地耕作を許す、
556
後陽成
文禄元年三月二十三日
1592
上杉景勝、伏見城経営を賀せんがため、越後を発して上洛す、この時高梨某等、諠諍をなし、改易せらる、
557
後陽成
文禄元年三月二十九日
1592
石川三長、康長、今井勘右衛門等に命じて、近在奉公人等の国役人足役を免除す、
557
後陽成
文禄元年
1592
久秀、姓関く、水内郡古間宿等をして、伝馬朱印状を有するものに、伝馬を出さしむ、
558
後陽成
文禄元年四月七日
1592
豊臣秀吉、同秀次をして、真田真幸を諸大夫に推挙せしむ、
559
後陽成
文禄元年四月十五日
1592
本願寺光昭、准如、高井郡常敬寺所蔵の本願寺兼寿蓮如、畫像に裏書を加ふ、
560
後陽成
文禄元年四月二十日
1592
真田真幸、小県郡吉田郷の百姓役を半役と定む、
561
後陽成
文禄元年
1592
細野七右衛門、筑摩郡若澤寺に鰐口を寄進す、
561
後陽成
文禄元年六月一日
1592
豊臣秀吉、真田昌幸をして、伏見城築城用材を、木曽より近江朝妻に届けしむ
562