長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」 巻十七 (100頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
後陽成天正一八年三月八日1590是より先、真田昌幸、佐久郡陣中より豊臣秀次を音問す、是日、秀次、之に答報し、信幸の在陣を犒ふ、100
後陽成天正一八年三月八日1590松平依田、康国、紀伊蓮華定院を、佐久郡内領民の宿坊と定む、100
後陽成天正一八年三月一三日1590前田利家、原孫右衛門の、木曽楢井宿陣取に協力せる功を賞し、能登・加賀・越中に於いて商売を許し、諸役を免除す、101
後陽成天正一八年三月一五日1590前田利家・上杉景勝等の先勢、佐久郡碓氷峠に、北条氏直の将大道寺政繁と戦ひて敗る、102
後陽成天正一八年三月一八日1590是より先、松平依田、康国、北条氏直の党依田昌朝等を、佐久郡阿江木白岩に破る、是日、豊臣秀吉、徳川家康をして、その功を褒せしむ、104
後陽成天正一八年三月二五日1590前田利家、家臣今井左太夫等に命じて、兵糧米を信濃河中島に運送せしむ、107
後陽成天正一八年1590佐久郡浅間山、噴火す、107
後陽成天正一八年四月三日1590松平依田、康国、紀伊蓮華定院を、甲斐の所領内領民の宿坊と定む、108
後陽成天正一八年四月五日1590依田昌秀、佐久郡岩村田の地を、紀伊蓮華定院に寄進す、108
後陽成天正一八年四月五日1590河野治右衛門、宮ノ下の筑後に流田の年貢免ず、109
後陽成天正一八年四月七日1590是より先、豊臣秀吉、相摸山中城を陥れ、戦況を真田昌幸に告ぐ、是日、昌幸、之に答へ、上野松井田城攻撃の陣況を石田三成に報ず、109
後陽成天正一八年四月八日1590小笠原貞政、秀政、安曇郡日岐城の番次を定む、111
後陽成天正一八年四月一〇日1590豊臣秀吉、小田原の戦況を昌幸父子に報ず、尋いで、また、戦況を昌幸父子に報ず、112
後陽成天正一八年四月一四日1590是より先、真田昌幸・同信幸、上野松井田城攻の戦況を豊臣秀吉に報ず、是日、秀吉、昌幸父子をして、上杉景勝・前田利家と相談の上、戦功を励ましむ、114
後陽成天正一八年四月二〇日1590真田昌幸・同信幸、前田利家・上杉景勝と、上野松井田城を囲む、是日、大道寺政繁、降る、118
後陽成天正一八年四月二六日1590是より先、松平依田、康国、上野西牧城を攻略す、是日、康国、同国惣社に於いて、長根縫殿助のため刺殺さる、121
後陽成天正一八年四月二七日1590前田利家、依田源三の戦功を賞す、128
後陽成天正一八年四月二九日1590是より先、真田昌幸、上野箕輪城を攻略し、之を豊臣秀吉に報ず、是日、秀吉、同城仕置等のことを指図す、128
後陽成天正一八年五月一一日1590徳川家康、松平依田、康真康寛、をして、その兄康国の遺跡を嗣がしむ、131
後陽成天正一八年五月一七日1590是より先、本願寺光寿、教如、相摸小田原陣中に豊臣秀吉を見舞はんとして、水内郡浄興寺等より費用を徴す、是日、本願寺執事粟津左近、同寺等に之を謝し、陣中の情況を報ず、132
後陽成天正一八年六月八日1590諏訪社上社大祝諏訪頼水等、同社に鉾等を寄進す、134
後陽成天正一八年六月一〇日1590是より先、諏訪頼忠、子頼水に諏訪郡を、同頼定に、諏訪社下社一跡を譲与す、是日、徳川家康、頼水・頼定をして、之を安堵せしむ、 徳川秀忠の諏訪頼忠宛書状135
後陽成天正一八年六月一八日1590高井郡興国寺住持順京、高山、永平寺開山御伝坐具文を書す、137
後陽成天正一八年六月二四日1590平盛幸、小県郡下之郷大明神に神領寄進を約す、138
後陽成天正一八年六月二五日1590是より先、松平康真、依田康寛、等、本多忠勝等と共に相摸筑井城を攻む、是日、徳川家康、康真等をして、同城を請取らしむ、138
後陽成天正一八年六月二八日1590是より先、小笠原貞慶、上杉景勝と共に、武蔵八王子城を攻めて之を陥る、是日、貞慶、小笠原貞政秀政、の臣沢渡盛忠等に戦況を報ず、 信濃の人高田武右衛門等、武蔵八王子城攻に功を顕はす、139
後陽成天正一八年七月五日1590是より先、小笠原貞政秀、秀政、相摸大磯に北条氏直の兵と戦ひて、功を立つ、是日、小田原城陥る、142
後陽成天正一八年七月一〇日1590小県郡信綱寺住持順京、高山、将奕に附法す、144
後陽成天正一八年七月一一日1590右衛門尉、姓闕く、諏訪久三をして、本領を安堵せしむ、145
後陽成天正一八年七月一三日1590豊臣秀吉、北条氏の遺領を徳川家康に与へ、また、諏訪頼忠等家康麾下の信濃の諸将を関東に移し、仙石秀康秀久、・石川康正数正、等を信濃の各地に封ず、 木曽義昌の書状并びに木曽氏関係文書145
後陽成天正一八年七月二一日1590某、小田原陣よりの帰途、諏訪郡上原に宿す、明日、木曽福島に到る、160
後陽成天正一八年七月二六日1590徳川家康、諏訪頼忠に、武蔵奈良梨・羽生・蛭川の地を宛行ふ、160
後陽成天正一八年七月二九日1590徳川家康、依田信守の津軽の戦功を賞す、161
後陽成天正一八年1590豊臣秀吉、上杉景勝をして、武蔵八王子城を守らしむ、仍りて、景勝、信濃の人須田満統をその鎮将となす、161
後陽成天正一八年八月一〇日1590真田信繁、安中平三の忠勤を褒し、名字を出す、164
後陽成天正一八年八月二四日1590豊臣秀吉の木曽代官石川光吉、木曽定勝寺等をして、寺領を安堵せしむ、165
後陽成天正一八年八月三〇日1590石川康正、数正、筑摩郡長興寺に禁制を掲ぐ、166
後陽成天正一八年九月三日1590豊臣秀吉の木曽代官石川光吉、木曽谷諸郷中に置目を頒つ、尋いで、光吉、木曽上田・上野郷に置目を頒つ、 光吉、原喜四郎に知行を宛行ふ、166
後陽成天正一八年九月四日1590石川康正、数正、安曇郡大沢寺・成就院に禁制を掲ぐ、169
後陽成天正一八年九月一六日1590毛利秀頼の臣篠治秀政、平沢道正を伊那郡虎岩郷代官となし、本年の貢納を命ず、 秀政等の道正宛書状171
後陽成天正一八年九月一七日1590毛利秀頼、神戸藤一等に、伊那郡検地の進捗を促す、172
後陽成天正一八年九月一七日1590益田柴次・香坂宗満、平沢道正に、同道忠等作分の年貢進納を命ず、 柴次、道正に紙の調進方を依頼す、173
後陽成天正一八年九月二三日1590是より先、豊臣秀吉、小笠原貞慶分の所領糺明のため、石川康正数正、・同光吉を信濃に遣はす、上杉景勝の兵等、貞慶分筑摩郡青柳等を占拠す、仍りて、是日、秀吉、上杉景勝の臣春日元忠等に命じて、同城を康正等に渡さしむ、175
後陽成天正一八年1590徳川家康、小笠原信嶺を武蔵本庄城に、小笠原貞政秀政、を下総古河城に転封す、176
後陽成天正一八年一〇月四日1590小笠原貞政、秀政、沢渡盛忠等をして、貞政の封地下総に移らしめ、知行を宛行ふ、 貞政、大熊平三郎に知行を宛行ふ、176
後陽成天正一八年一〇月四日1590是より先、諏訪社上社神長守矢信真、相摸小田原城番の諏訪頼忠を音問す、是日、頼忠、之に答へ、信真に日根野高吉の援に依り宮本社建立を励むべきを命ず、179
後陽成天正一八年一〇月一三日1590什算、小県郡金縄寺々領帳を書写す、182
後陽成天正一八年一〇月一七日1590毛利秀頼、西尾喜右衛門尉に、伊那郡箕輪等に於いて知行を与ふ、 秀頼、喜右衛門尉に、知行を与ふ、185
後陽成天正一八年一〇月二〇日1590是より先、上杉景勝、領内羽前仙北郡に一揆を鎮圧す、是日、信濃の人戸狩頼世等、一揆の武具を請取る、185
後陽成天正一八年一〇月二四日1590石川光吉、古畑十兵衛等に、木曽谷中社寺への寄進地目録を誌し与ふ、187
後陽成天正一八年一〇月二六日1590豊臣秀吉の臣日根野高吉、諏訪郡大塩村を検地す、尋いで、同郡真志野村を検地す、188