長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻十七 (400頁~)
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後陽成
天正一九年一一月一六日
1591
小県郡安楽寺、同寺寺領を記す、
429
後陽成
天正一九年一一月二三日
1591
石川康正数正、の臣安倍子源左衛門等、伊那郡小野村北方三十五貫文の地を毛利秀頼方に渡す、 諏訪社上社神長守矢信真、諏訪郡境のことにつき、某に書を送る、
430
後陽成
天正一九年
1591
木曽御岳権現弥宜滝六郎右衛門、岳由来記を書す、
434
後陽成
天正一九年一二月二日
1591
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
440
後陽成
天正一九年一二月五日
1591
真田昌幸、窪田半衛門に小県郡上条等の地を宛行ふ、
441
後陽成
天正一九年一二月二二日
1591
賢祐、更級郡庄内新山村の年貢納高を定む、
442
後陽成
天正一九年一二月二四日
1591
篠治秀政、毛利秀頼の肥前名護屋出陣につき、平沢道正に馬の調進を命ず、
446
後陽成
天正一九年一二月二七日
1591
是より先、諏訪社上社権祝矢嶋某、下総多古の保科正直に玉会を贈る、是日、正直、之に答謝す、 保科正直の書状
446
後陽成
天正一九年一二月二九日
1591
乙事五味、太郎左衛門、江戸に上りて徳川家康に謁し、扶持加増を賜はり、併せて武蔵国八王子の大楽寺村に屋敷を与へらる、
449
後陽成
天正一九年
1591
上野の人小幡信繁、小県郡下之郷大明神に神領を寄進し、祈祷を請ふ、
450
後陽成
天正一九年
1591
諏訪社上社、同社今年の頭役料を記す、
451
後陽成
文禄元年正月二八日
1592
真田昌幸、田村雅楽助に、朝鮮出征を命じ、上野吾妻の地を宛行ふ、
453
後陽成
文禄元年正月三〇日
1592
真田昌幸、小県郡信綱寺の寺役を半役と定む、
453
後陽成
文禄元年二月五日
1592
是より先、佐久郡竜雲寺住持文最、勝巌、同郡慈寿寺を再興す、是日、寂す、
454
後陽成
文禄元年二月五日
1592
神戸藤市、伊那郡知久平諏訪社神祝に地を宛行ふ、
454
後陽成
文禄元年二月一一日
1592
日根野高吉、諏訪社上社大祝諏訪頼広に知行を与ふ、
455
後陽成
文禄元年二月一八日
1592
越前永平寺住持祚球、佐久郡竜雲寺住持大雲天外、をして、同寺に瑞世せしめんとす、 永平寺祚球の書状
456
後陽成
文禄元年
1592
加藤光泰、甲斐山善光寺に寺領を寄進し、栗田永寿をして取計らしむ、
458
後陽成
文禄元年三月一六日
1592
真田昌幸、北沢勘解由に小県郡塩尻の地を宛行ふ、
459
後陽成
文禄元年三月一八日
1592
仙石秀康・石川康正等、京都を発し肥前名護屋に向ふ、
459
後陽成
文禄元年四月二〇日
1592
上杉景勝、米を豊臣秀吉に贈らんとし、水内郡の人立岩喜兵衛をして、増田長盛に渡さしむ、 直江兼続、立岩喜兵衛をして、肥前名護屋の陣所を見計らしむ、
460
後陽成
文禄元年四月二六日
1592
信濃の人小川久助、浅野幸長に従ひ朝鮮に出陣せんとす、是日、甲斐身延山日賢、久助に守符等を贈る、
462
後陽成
文禄元年六月一一日
1592
上杉景勝、平田輔範に、更級郡力石村等の地を宛行ふ、
463
後陽成
文禄元年六月一四日
1592
松平依田、康真、康寛、丸山内匠助に所領を宛行ふ、
464
後陽成
文禄元年六月二一日
1592
篠治秀政室、伊那郡白山社本殿を再興す、 白山社奥社本殿の墨書銘
464
後陽成
文禄元年
1592
諏訪郡兼家、姓闕く、諏訪社上社に薙鎌を寄進す、
466
後陽成
文禄元年七月一八日
1592
更級郡山布施郷と水内郡笹平村との山堺相論和解す、
466
後陽成
文禄元年
1592
安曇郡満願寺栄専、妙秀菩提のため円頂を読誦す、
467
後陽成
文禄元年九月二四日
1592
豊臣秀吉、上杉景勝の臣芋川親正等をして、陸奥九戸・藤島一揆の残党を討たしむ、
468
後陽成
文禄元年九月二四日
1592
真田昌幸・水沢某に、知行を与ふ、 真田昌幸、北沢清兵衛に知行を宛行ふ、
470
後陽成
文禄元年
1592
筑摩郡麻績神明宮の懸佛、成る、
471
後陽成
文禄元年
1592
安曇郡大沢寺住持正頓、南室、正盛安室、に宗門向上一大事を伝授す、
471
後陽成
文禄元年一一月一八日
1592
仙石秀康、秀久、従五位に叙せられ、越前守に任ぜらる、
472
後陽成
文禄元年一一月二七日
1592
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
472
後陽成
文禄元年一二月三日
1592
篠治秀政、伊那郡市田宿往還の荷駄賃・宿賃を定む、 秀頼、市田原町伝馬の者の人夫役を免除す、 秀頼、市田原町の伝馬衆を定む、
473
後陽成
文禄元年一二月九日
1592
上野一宮社僧某、佐久郡津金寺明年慈音講のため、眷属妙義を書す、
477
後陽成
文禄元年一二月一三日
1592
徳川家康、石川康正の子三長康長、をして、亡父の風安曇・筑摩二郡を嗣がしむ、
477
後陽成
文禄元年一二月一三日
1592
徳川家康、木曽義昌・小笠原秀政等諸大名に、肥前名護屋出陣を命ず、
478
後陽成
文禄元年一二月二八日
1592
徳川家康、諏訪頼忠をして、上野那波郡総社の地を領知せしむ、
479
後陽成
文禄元年一二月二八日
1592
安曇郡大沢寺住持正頓、南室、正盛安室、に龍天白山切紙等を伝授す、
479
後陽成
文禄元年
1592
正瑞雪庵、生死事大切紙を正盛安室、に伝付す、
486
後陽成
文禄元年
1592
高井郡佐野村諏訪社の造営成り、是日、遷宮行はる、
487
後陽成
文禄元年
1592
蒲生氏郷、朝鮮出征に従軍せんとし、奥羽を発し、上野より信濃を経て美濃に入る、
488
後陽成
文禄元年正月四日
1592
小笠原貞政、秀政、肥前名護屋出陣の士を定め、溝口貞秀をして、留守の家屋敷を取締らしむ
490
後陽成
文禄元年正月二三日
1592
山城醍醐寺理性院、朝鮮在陣の毛利輝元祈念のため、太元護摩法を行ふ、伊那郡文永寺宗然、之に勤仕す、
491
後陽成
文禄元年二月一日
1592
豊臣秀吉、河中島より、苧千貫文を徴す、
492
後陽成
文禄元年二月六日
1592
大谷本願寺光寿、教如、水内郡正覚寺舊蔵の顕如上人畫像に裏書を加ふ、
493
後陽成
文禄元年二月三十日
1592
伊予とち山の彦八、木曽白山社に安穏を祈る、
494
後陽成
文禄元年
1592
水内郡臥雲院住持正頓、南室、同寺縁起を筆写す、
494
後陽成
文禄元年三月九日
1592
毛利秀頼、天野正次に命じ、伊那郡市田宿在郷伝馬衆を市田町に移らしむ、
497
後陽成
文禄元年三月十日
1592
伊那郡小川郷の年貢納高を指出す
498
後陽成
文禄元年三月二十八日
1592
伴兵左衛門、吉定某に、安曇郡にう之たう原の地を與ふ。
499