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天皇 | 年月日 | 西暦 | 記事 | 頁 |
後陽成 | 慶長七年一一月七日 | 1602 | 真田信之、成沢勘左衛門をして、本領を安堵せしめ、知行を加増す、 | 438 |
後陽成 | 慶長七年一一月一二日 | 1602 | 諏訪社上社、同社の神子名及びその用途を記す、 | 438 |
後陽成 | 慶長七年一一月二〇日 | 1602 | 森忠政の家臣各務言晴、水内郡妙証寺をして寺領以下を安堵せしむ、 | 441 |
後陽成 | 慶長七年一一月二〇日 | 1602 | 木曽代官山村道勇、良候、卒す、徳川家康、子良勝をして跡職を嗣がしむ、 | 441 |
後陽成 | 慶長七年一一月二四日 | 1602 | 諏訪湖上に諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、 | 448 |
後陽成 | 慶長七年一二月五日 | 1602 | 森忠政、各務言晴に命じ、越後より水内郡長沼への往還につき、横道通行を禁ぜしむ、 | 449 |
後陽成 | 慶長七年一二月五日 | 1602 | 真田信之、海野藤八に、小県郡丸子料所内の地を宛行ふ、 | 449 |
後陽成 | 慶長七年一二月一〇日 | 1602 | 真田信之、上野沼須に新町を立て、その条規を定む、また、狩野右衛門助に、上野中条御宿屋敷及び伝馬役を命ず、 信之、上野原新町に条目を出す、 | 450 |
後陽成 | 慶長七年一二月二二日 | 1602 | 各務言晴、水内郡浄興寺をして、門前屋敷を安堵せしむ、 | 453 |
後陽成 | 慶長七年 | 1602 | 小県郡貞津院住持欣隆、同寺を退院し、同郡長福寺住持秀嫩、桂巌、監院として、同寺を看守す、 | 453 |
後陽成 | 慶長七年 | 1602 | 木曽代官、当年の谷中勘定目録を記す、 | 454 |
後陽成 | 慶長七年 | 1602 | 森忠政、高井郡栃倉村等領内諸村を検地す、 | 460 |
後陽成 | 慶長八年正月一八日 | 1603 | 山城本願寺光昭、准如、高井郡普願寺所蔵の聖徳太子画像等に裏書を加ふ、 | 491 |
後陽成 | 慶長八年正月二五日 | 1603 | 是より先、山村良勝、亡父道勇良候、の遺書に依り、徳川秀忠に茶壺を贈る、是日、秀忠、之に答謝す、 | 492 |
後陽成 | 慶長八年二月六日 | 1603 | 徳川家康、埴科郡松城の森忠政を、美作津山に移す、尋いで、松平忠輝を下総佐倉より松城に移す、この間、保科正光をして、松城等の城番を勤めしめ、また、皆川広照を飯山城におき、忠輝の伝に当らしむ、 | 493 |
後陽成 | 慶長八年二月一七日 | 1603 | 山城本願寺光昭、准如、水内郡称名寺明順所蔵の親鸞上人の画伝に裏書を加ふ、 | 497 |
後陽成 | 慶長八年二月二〇日 | 1603 | 幕府、埴科郡坂城村に伝馬の朱印を下す、 | 497 |
後陽成 | 慶長八年二月二八日 | 1603 | 真田信之、長井右京より前年納払方の金子を請取る、 | 498 |
後陽成 | 慶長八年三月五日 | 1603 | 伊那郡小川郷、同郷の持高帳を記す、 小川郷石高帳 | 498 |