長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻十九 (500頁~)
1頁~
100頁~
200頁~
300頁~
400頁~
500頁~
「信濃史料」巻別収録年代に戻る
・ 綱文(記事)をクリックすると、綱文とその出典を掲載した画面が表示されます。
天皇
年月日
西暦
記事
頁
後陽成
慶長八年三月九日
1603
伊那郡針田の三郎左衛門、平沢新十郎等より田地を預り、請文を出す、 かん七郎等、孫五郎より借米す、
503
後陽成
慶長八年三月一一日
1603
石川康長、安曇郡野平新田の条目を定む、
505
後陽成
慶長八年三月一三日
1603
諏訪頼満、頼水、領内肝煎に命じ、土貢以下のことにつき、志賀左近等の指図に従はしむ、
506
後陽成
慶長八年三月一五日
1603
紀伊高野山の真田昌幸、小県郡信綱寺僧某の音信を送れるに答謝し、本多正信の徳川家康への取成に期待する旨を報ず、
506
後陽成
慶長八年三月一五日
1603
小県郡安楽寺将奕、大雲、同寺校割帳を記す、 将奕、校割帳追加分を誌す、
507
後陽成
慶長八年三月一六日
1603
高井郡常楽寺高淳、朴翁、鈯斧住山の切紙を某に伝授す、
511
後陽成
慶長八年三月二十日
1603
是より先、小県郡和田の百姓等、代官を忌避して、闕落す、仍りて真田信之、代官を改替し、遠藤源助等をして、百姓を還住せしむ、
512
後陽成
慶長八年三月二二日
1603
真田信之、湯本三郎右衛門尉の鷹見役の功を賞し、知行を與ふ、
515
後陽成
慶長八年三月二六日
1603
真田信之、龍野茂右衛門等に知行を與ふ、また、小県郡長瀬の地等を春原六左衛門代官所に預く、
516
後陽成
慶長八年三月二八日
1603
松平忠輝、水内郡性乗寺に禁制を掲ぐ、
517
後陽成
慶長八年四月一日
1603
松平忠輝、水内郡大安寺に禁制を掲ぐ、尋いで、高井郡如法寺に定書を掲ぐ、
518
後陽成
慶長八年四月七日
1603
是より先、宗龍、真翁、松平依田、康国の求めに応じ、佐久郡宗心寺を開く、是日、宗龍、寂す、
520
後陽成
慶長八年四月二四日
1603
栗田永寿、善光寺本尊に願文を捧げ、同寺別当に復せんことを祈る、
522
後陽成
慶長八年五月十二日
1603
真田信之、日置五右衛門尉をして、知行を安堵せしむ、
523
後陽成
慶長八年五月十四日
1603
幕府、伊那郡朝日受永、近路、代官所の慶長六・七年分年貢勘定を遂げんとし、子近次をして諸帳を提出せしむ、
523
後陽成
慶長八年五月十六日
1603
鶴見次大夫、筑摩郡泉郷に、前年の年貢勘定目録を渡す、
524
後陽成
慶長八年五月十九日
1603
信濃の人本誓寺超賢、寂す、
526
後陽成
慶長八年五月二五日
1603
毛利輝元、江戸より中山道を通り、佐久郡岩村田に倒る、尋いで、木曽路に赴く、
526
後陽成
慶長八年六月五日
1603
神祇管領長上吉田某、高井郡六川郷八幡宮祠官片山晴茂に、神道裁許状を與ふ、
529
後陽成
慶長八年六月二四日
1603
香坂七郎右衛門等、幕府領伊那郡下條領の当年の役儀高を定む、
530
後陽成
慶長八年六月三日
1603
真田信之、上野玉泉寺をして、寺領を安堵せしむ、
531
後陽成
慶長八年六月二八日
1603
伊那郡代官朝日受水、近路、卒す、
531
後陽成
慶長八年八月二日
1603
水内郡大安寺住持正盛、安室、達磨知死期の大事を正紹に伝授す、
534
後陽成
慶長八年九月五日
1603
大久保長安、千村良重をして、山中代官所領内百姓の年貢弁済を督促せしむ、
535
後陽成
慶長八年九月十二日
1603
幕府、千村良重を下伊那郡代官となす、尋いで、遠江奥山代官をも命ず
536
後陽成
慶長八年九月二十日
1603
平岡宗寿等、徳蔵主を埴科郡円通寺住持となす、
540
後陽成
慶長八年
1603
山村良勝、木曽鹿嶋社に神領を寄進す、
540
後陽成
慶長八年
1603
七郎衛門等、伊那郡知久郷南山田本村天伯宮を建立し、また、同所明神社の上葺をなす、
541
後陽成
慶長八年十月二二日
1603
真田信之、小幡内膳正に、知行を與ふ、
542
後陽成
慶長八年十月二九日
1603
諏訪郡仏法寺尊朝、同寺に於いて、伝法潅頂を行ふ、
542
後陽成
慶長八年十一月十二日
1603
諏訪頼満、頼水、埴科郡松城に在りて、家臣千野權七等に命じ、森忠政舊領の諸城を松平忠輝の家臣に渡さしむ、
544
後陽成
慶長八年十一月七日
1603
幕府、松平忠輝領内に條目を領つ、
547
後陽成
慶長八年十一月七日
1603
大久保長安、平岡良和に命じ、越後より水内郡長沼への商人荷物の輸送につき、横道通行を禁ぜしむ、
551
後陽成
慶長八年十一月八日
1603
大久保長安、水内郡朝日山を善光寺造営料所と定む、
551
後陽成
慶長八年十一月二二日
1603
仙石秀久、山浦左門に佐久郡茂田井の地を安堵す、
552
後陽成
慶長八年十一月二三日
1603
諏訪頼満、頼水、諏訪社下社大祝等に、諏訪郡竹居等の地を與ふ、
553
後陽成
慶長八年十一月二三日
1603
筑摩郡牛伏寺憲怡、先師憲渟の木像を造立す、
558
後陽成
慶長八年十二月一日
1603
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、
559
後陽成
慶長八年十二月三日
1603
浅間山、鳴動す、
559
後陽成
慶長八年十二月十三日
1603
黒崎治部助等、幕府の命に依り、高井郡常樂寺に寺領を渡付す、
560
後陽成
慶長八年
1603
山村良勝、桑原治助に三尾將監手作分の地を領く、
560
後陽成
慶長八年
1603
木曽代官、当年の谷中勘定目録を記す、
561
後陽成
慶長八年
1603
諏訪社下社神宮寺千手堂の鰐口、成る、
565
後陽成
慶長九年二月一〇日
1604
徳川家康、下伊那郡の榑木を求む、是日、大久保長安、千村良重をして、用榑奉行人森石馬助等に協力せしむ、
566
後陽成
慶長九年二月二四日
1604
真田信之、番匠勘五郎に、小県郡国分寺の地を與ふ、
569
後陽成
慶長九年三月一日
1604
松平忠輝、高井郡井上郷肝煎衆彌右衛門に命じ、還住百姓に舊の如く田地を與へしむ、
570
後陽成
慶長九年三月一一日
1604
更級郡普光寺宗誉、その徒見性に、円頓一乗戒を授く、
571
後陽成
慶長九年三月二五日
1604
佐久郡の人依田信守、卒す、
572
後陽成
慶長九年四月八日
1604
円覚寺役者、同寺派下某人の蔵主昇任の官銭を請取る、
574
後陽成
慶長九年四月一五日
1604
皆川廣照、水内郡常葉郷飯山八幡等の諸社に神領を寄進す、
575
後陽成
慶長九年五月五日
1604
山村良勝、千村三郎兵衛に、川中島より出す銀の品目を示す、
576
後陽成
慶長九年六月一日
1604
皆川廣照、水内郡飯山真宗寺に寺領を寄進す、
577
後陽成
慶長九年六月一〇日
1604
小県郡信綱寺住持順京、高山、建應量室、に仏祖正伝菩薩戒作法を伝授す、
578
後陽成
慶長九年六月二三日
1604
真田信之、河原右京・日置五右衛門に領内諸郷の事を沙汰せしむ、
578
後陽成
慶長九年六月二八日
1604
皆川廣照、水内郡南條勝願寺に地を寄進す、
580
後陽成
慶長九年六月二九日
1604
山田籐左衛門、見崎喜兵衛より、水内郡竹生組の年貢銀を請取る、
580
後陽成
慶長九年六月三〇日
1604
真田信之、原求女等に小県郡内の地を與ふ、
582
後陽成
慶長九年
1604
水内郡大安寺住持正盛、安室、同寺に結制安居す、
583
後陽成
慶長九年七月一七日
1604
徳川秀忠の子、竹千代家光、生る、尋いで、七夜の儀を行ふ、松平忠輝・小笠原秀政・同信之等、之に列す、
585
後陽成
慶長九年七月一七日
1604
神祇管領長上吉田兼治、佐久郡大宮大明神祠官伴野清敬に、風折烏帽子・狩衣の着用を允可す、
586
後陽成
慶長九年七月二一日
1604
幕府、更級郡八幡宮・水内郡飯縄社等に地を寄進す、
586
後陽成
慶長九年七月二一日
1604
松平忠輝、更級郡興禅寺等に地を寄進す、
588