長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻二十二 (1頁~)
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後水尾
元和元年正月三日
1615
真田信之、上野沼田の出浦対馬守の賀歳に答へ、領内仕置を堅固にせしむ、 信之、出浦対馬守をして、金子を調達せしむ、
1
後水尾
元和元年正月一三日
1615
幕府、木曽福島宿の伝馬条目を定む、
2
後水尾
元和元年正月二〇日
1615
山村良安、千村重利等の、酒井家次の家臣の大坂陣より逃亡せる者を、木曽贄川に於いて捕へし功を褒す、 山村良安、桑原三郎右衛門等を木曽贄川口留となし、萩野九大夫を帰宅せしむ、
3
後水尾
元和元年正月二二日
1615
幕府、伊那郡浪合関守知久則直等をして、大坂より帰陣の関東・奥州の諸士を勘過せしむ、
5
後水尾
元和元年正月二四日
1615
真田信繁、大坂城中より、その姉村松小山田茂誠室、に無事を報ず、
6
後水尾
元和元年正月二六日
1615
仙石秀久、丸山内匠助の、佐久郡田口村に還住を望むにより、之を許す、
7
後水尾
元和元年正月二六日
1615
堀直寄、大坂陣小屋を九介姓闕くに引渡す、
8
後水尾
元和元年正月三〇日
1615
小笠原秀政、安曇郡中堂の甚助等の、鷹待を勤むるにより、諸役を免ず、
8
後水尾
元和元年
1615
横島吉次、鉄砲の奥義を水内郡矢島勝右衛門に伝授す、
10
後水尾
元和元年二月一日
1615
松平忠輝の家臣香取助兵衛、領内巣守衆に巣鷹山の取締を命ず、
11
後水尾
元和元年二月二日
1615
真田信之、出浦対馬守の上野原町に移るにあたり、屋敷地を与ふ、
12
後水尾
元和元年二月四日
1615
茂呂源左衛門、筑摩郡青柳村の多兵衛より、去年分問屋役銀を請取る、
12
後水尾
元和元年二月八日
1615
是より先、小山田茂誠、大坂城中の真田信繁に物を贈る、是日、信繁、之に答へ、近況を報ず、
13
後水尾
元和元年二月九日
1615
竹内与三右衛門等、伊那郡虎岩村の勘右衛門より、上納の薪を請取る、 与三右衛門等、虎岩村の勘右衛門等より薪を請取る、
13
後水尾
元和元年二月一〇日
1615
石合道定、大坂城中の真田信繁・大助父子を存問す、是日、信繁、之に答へ、篭城の決意を告ぐ、
17
後水尾
元和元年二月一五日
1615
真田信之の家臣出浦対馬守、某をして、関口新兵衛に蔵米を渡さしむ、
18
後水尾
元和元年二月一五日
1615
仏涅槃日、建仁寺住持慈稽、古澗、上堂説法す、
19
後水尾
元和元年二月一九日
1615
林道春羅山、の養父理才の忌日、道春、建仁寺住持慈稽古澗、作る所の追悼偈を相国寺慈照院塔主顕晫昕齋、に示す、
19
後水尾
元和元年二月二五日
1615
本多忠政、真田信之の病気を訪ふ、 大久保忠常、信之の病気を訪ふ、
20
後水尾
元和元年二月二六日
1615
松平忠輝、江戸より駿付に到り、徳川家康に謁す、
21
後水尾
元和元年二月二七日
1615
伊那郡大草村、同村高・持高・役高を記す、
22
後水尾
元和元年
1615
筑摩郡筑摩社別当某、千鹿頭社当年御柱立の入用を注す、
23
後水尾
元和元年三月六日
1615
小笠原秀政の家臣原与右衛門、筑摩郡十三郷をして、上野高崎に送る榑木の運送を手伝はしむ、
25
後水尾
元和元年三月七日
1615
原藤左右衛門、筑摩郡小俣村の田地の高及び年貢納高を記す、
27
後水尾
元和元年三月九日
1615
松平忠輝の家臣山田勝重、某玄蕃等の大坂より無事帰陣を祝す、
30
後水尾
元和元年三月九日
1615
伊那郡針田の三郎左衛門、請作手形を香坂十郎右衛門等に指出す、
31
後水尾
元和元年三月一〇日
1615
大坂篭城中の真田信繁、小山田茂誠・同之知父子に近況を報ず、
31
後水尾
元和元年三月一四日
1615
建仁寺久昌院開基美濃加納城主奥平信昌、卒す、尋いで、同寺大統院塔主慈稽、古潤、その葬礼に起龕仏事を勤む、 慈稽、信昌の初願忌に陞座説法す
32
後水尾
元和元年三月二〇日
1615
伊那郡虎岩村、前年つなぎ及び上綿の代米支払方を記す、
43
後水尾
元和元年三月二一日
1615
伊那郡虎岩村、前年のつなぎ支払方を記す、
45
後水尾
元和元年三月二一日
1615
伊那郡勘七郎等、孫五郎より借米す、
48
後水尾
元和元年三月二三日
1615
幕府、小笠原秀政をして、前年の大坂陣の際、年貢・夫丸等につき難渋せるものを注進せしむ、
49
後水尾
元和元年三月二五日
1615
勝野八左衛門、筑摩郡岩殿寺の諸役を免ず、
50
後水尾
元和元年三月二六日
1615
更級郡八幡村百姓、見崎喜兵衛に、前年の納目録を進む、
50
後水尾
元和元年三月三〇日
1615
善光寺、炎上す、
51
後水尾
元和元年
1615
小県郡安楽寺住持建応、量室、山居大事之切紙を、京与に伝授す、
52
後水尾
元和元年
1615
小笠原秀政、伊那郡小野社に御戸帳を奉納す、
52
後水尾
元和元年
1615
伊那郡虎岩村新十郎、香坂十郎右衛門等より蔵米を借用す、
53
後水尾
元和元年四月一日
1615
徳川家康、小笠原秀政に命じて伏見城番に加はらしむ、是日、秀政、之を筑摩郡広沢寺に報ず、尋いで、秀政、松本を発す、その子忠脩、また、密に軍に従ふ、
54
後水尾
元和元年四月四日
1615
幕府、大坂参陣の諸将に軍法及び道中条目を頒つ、
62
後水尾
元和元年四月五日
1615
春日淡路守、筑摩郡塩尻口留衆をして、駿河清水の茂左衛門の馬を勘過せしむ、
65
後水尾
元和元年四月六日
1615
真田信之の室、安中作左衛門に大坂出陣の真田信吉の扶助を依頼す、
65
後水尾
元和元年四月七日
1615
真田信之、長井九助等に知行を加増す、尋いで、真田信吉、山室佐左衛門に知行を与ふ、
66
後水尾
元和元年四月八日
1615
仏誕生日、建仁寺住持慈稽、古潤、上堂説法す、
67
後水尾
元和元年四月一〇日
1615
徳川秀忠、軍を率ヰて江戸を発す、仙石忠政・真田信吉等、之に従ふ、
68
後水尾
元和元年四月一一日
1615
真田信之、正村庄右衛門等に、大坂まで馬印の警固を命ず、
71
後水尾
元和元年四月一二日
1615
真田信之、宮下藤右衛門をして、前年大坂参陣の士に知行を給せしむ、
72
後水尾
元和元年四月一三日
1615
是より先、豊臣秀頼、真田信繁・仙石宗也等城内の士を三組に編成す、是日、織田有楽、之を徳川家康に報ず、
73
後水尾
元和元年四月一四日
1615
真田信之、上原八左衛門をして、上野沼田の地を知行せしむ、
73
後水尾
元和元年四月一六日
1615
是より先、真田信之、その子信吉を大坂に出陣せしむ、是日、信之、従軍の老臣矢沢頼幸等に信吉の扶助を依頼す、
74
後水尾
元和元年四月二二日
1615
真田信之の家臣出浦対馬守、市場太郎左衛門をして、某を安堵せしむ、
74
後水尾
元和元年四月二六日
1615
松平忠輝、徳川秀忠等と共に、山城二条城に至り、徳川家康に謁す、
75
後水尾
元和元年四月二六日
1615
松本蟄居中の佐野信吉、本多忠純を頼みて、大坂出陣に加へられんことを、本多正信等に懇請せんとす、
75
後水尾
元和元年四月二七日
1615
幕府、松平乗寿・稲葉正成等に命じ、信濃・美濃の軍勢を以つて、河内枚方を守らせしむ、
76
後水尾
元和元年四月二七日
1615
木曽代官山村良安、桑原三郎右衛門に大坂出陣を命ず、
80
後水尾
元和元年四月二八日
1615
真田信吉・信政兄弟等、井伊直孝の組下となり、河内天王寺口に着陣す、 諏訪頼満の大坂出陣の家臣交名
81
後水尾
元和元年五月六日
1615
本多忠政、伊達政宗等、大坂方の将真田信繁等と、片山道明寺付近に戦ふ、大坂方の軍、敗る、
83
後水尾
元和元年五月七日
1615
大野治房、某をして、真田信繁等と軍議せしむ、
96
後水尾
元和元年五月七日
1615
大坂城合戦、小笠原秀政・同忠脩、真田信吉・同信政、仙石政忠・保科正光、諏訪忠頼忠澄、忠恒、・堀直寄等信濃の諸将、天王寺表に戦ふ、小笠原父子討死し、又大坂方真田信繁も討死す、
96