可翁字は宗然、筑前の人、夙に南浦紹明に參究して其印可を受けた。文保の初め、寂室元光等と共に元に渡り、天目山の中峰に參じ、留まること十年、嘉曆の初め歸朝し、(本朝高僧傳第二十七)筑前崇福寺の第十世に出世し、(增補正燈世譜)尋いで南浦に隨つて上洛し、建仁の第二十八世、萬壽の第十六世、南禪の第十八世に歷住した。(東山歷代、扶桑五山記)同年中に西園寺公衡、石塔賴房等檀越として、堺に長松山禪通寺を創立し、諸伽監を造營して、【禪通寺第一祖】宗然を請じ其第一世とした。(禪通寺記錄、堺鑑中、和泉名所圖會卷之一)幾程もなく弟子大用宗任に其席を繼がせて都門に歸り、後勅を奉じて南禪寺に遷り、晚年更らに建仁寺中に天潤菴を創建して退老した。(本朝高僧傳第二十七)【丹青を好み】法務の傍ら丹青を好み、其作品には多く寧一山の贊がある。興國六年四月二十五日(扶桑五山記には八月二十四日に作る)入寂した。(師守記十一)塔を毗盧といふ。勅して普濟大聖禪師の號を追諡せられた。(扶桑五山記四、增補正燈世譜、本朝高僧傳第二十七)本朝畫史には可翁良全と號す(或は良詮に作るとも)とあるも墨蹟祖師傳其他の書には多くは良全の名を載せてゐない。【然可翁と詮可翁の異同】或は宗然可翁は良詮可翁と別人で畫を作らぬと稱して居る。古畫備考には諸種の落款を蒐めて、海西人良詮之作、海西詮無事之筆、良全作等數種を載せて居る。今京都禪居菴所藏の僧友梅の贊ある出山釋迦像及び相國寺の所藏に係る寧一山贊の寒山拾得圖は、共に可翁の筆と稱するもので、朱文にて可翁の方印を捺して居る。又建仁寺所藏の十六羅漢には、良詮筆の墨書がある。然可翁と詮可翁と同一人であるか、將又別人であるかは、未だ明かでない。(日本書畫名家編年史卷二)