ビューア該当ページ

(四)覺應

5 ~ 6 / 897ページ
 【覺應寺開基】覺應は堺覺應寺(現堺市九間町東三丁)の開基である。姓は河野、名は通元、伊豫國溫泉郡石手の人で、文永七年に生れた。父は河野通有、弘安中蒙古襲來に際して驍勇の名高く、母は同通綱の女であつた。幼名米王丸、十二歳の時父に從つて出陣し、後父の跡を繼いで伊豫、肥前兩國の守護となり民部大輔通元と稱した。後一念發起して正中元年九月上洛、【覺如の弟子となる】本願寺覺如に倚つて覺應の法名を授與せられ、歸國して一向宗の教義を弘通した。又日向宮崎の鄕を有緣の地として、同年十月一小寺を建立して覺應坊と名づけ、西陲の僻地にも法雨を濺ぎ、元德の頃亦鄕里石手の邊にて、老幼男女を勸めて念佛門に入らしめ、元弘二年の秋再び上洛して覺如に大谷の精舍に謁し、三部の經意をさぐり、或は七祖の釋義を考へ、三年の秋律師の勅許を得た。斯くして亦空性を山科の草庵に訪ひ、或は興正寺(佛光寺七世)の了源と易行の大道を論じ、翌建武元年春、伊豫に歸つた。【布教論觀】爾來布教論觀に他事なかつたが、正平二年三月上旬病臥、同二十二日終に享年七十八歳を以て示寂した。(覺應上人繪詞傳)