良尊は清原夏野の後裔、父は右京亮守道、後宇多天皇に仕へ、母は河内國枚岡の神主主計頭の女桔梗の前と稱した。弘安二年十月十日を以て生れた。幼名信貴千代、長じて權少將道張と稱し、文武兩道に練達した。幼にして父母を喪ひ、又妻子をも喪ふに及び出離の念を抱き、家を其弟刑部丞正次に讓り、二十五歳の秋高野山に登り、千手院谷眞福院の俊賢法印を師とし、薙髮して法明房良尊と稱した。幾ばくもなく兩部不二の灌頂を受け、密宗の祕奧を極めた。後更らに天台の宗義を學ばんとて比叡山に登り、既にして念佛三昧に精進し、深江の舊邸に歸つた後、政次等の請にまかせ、邸内に一小草庵を結び、自行勤修の傍ら有緣の輩を化導した。其中に老臣澤田兼定も其弟子となり、西願と號してこれに仕へた。後世此草庵の舊跡に一寺を建立して法明寺と號した。次いで元亨元年十一月十五日の夜、【融通念佛の正統を嗣ぐ】良尊石清水八幡の夢想により融通念佛正統を嗣ぎ、攝津杭全平野鄕に佛殿方丈等を經營し、大念佛寺を開基した。【播磨に下る】偶々播磨加古郡の教信房靈夢に現はれて念佛の要を師に説くや、元亨三年の春難波より加古に航して佛事を修し既にして、【七堂濱に廻着す】同年七月泉州堺浦七堂が濱に着船し、諸人に迎へられて、こゝに來迎寺の基を開いた。斯くして亦踊躍念佛嚴修の例を開いた。(融通念佛宗三祖略傳)事後醍醐天皇の叡聞に達し、【至尊の崇信】崇信の餘り後宮及び百僚と共に日課念佛を受け、名帳に入會せられた。【元の世祖の歸依】而して元の世祖皇帝も亦其德風を聞いて歸依し、至元五年(延元四年)の夏には鵞州郡夫人自ら紺紙に銀泥を以て書寫した華嚴經に、願意を跋書して遠く師に送られたと傳へてゐる。七十歳附弟興善坊に化務を讓つて退隱し、正平四年六月十三日示寂した。壽七十一。(融通念佛宗三祖略傳)