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(一二)智演

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 釋阿智演は信濃の人、牧野氏の一族である。七歳にして母に難れ、鎌倉極樂寺の良觀律師に隨身して剃髮し、俊澄と號した。十五歳にして叡山橫川に登り、台家の奧旨を究めて學頭となり【元國廬山に登る】終に元に入つて廬山に登り、三昧海經を將來して歸朝し、それより大和の石寺に詣でゝ、彌勒菩薩の瑞示を得、專修念佛の行者となつて、諸國を廻遊し、終に堺に來り、【堺高野堂に住し念佛宗を弘通す】高野堂に住し、專念の宗義を弘通した。偶々三宅十五郞といふ者があつて、篤く佛教を信じ、常に其父母の菩提心なきを悲しんだ。然るに父五郞三郞は、興國六年十二月の頃より病魔の冒すところとなつた。同家は代々土地の長者として家富み、あらゆる醫療を加へたが、效なく遂に瀕死の重體に陷つた。孝心深き十五郞は、悲嘆に堪えず、翌年正月二日より一七日間斷食潔齋して、其平癒を住吉明神に祈つた。其時夢中に、堺の海濱に無量壽佛あり、宜しく此像を尋ね索めて、精舍に安置せよとの示現があつた。十五郞卽ち彼の佛像を海濱に得て家に歸り、父母に禮拜を勸めると父の病は忽ち平癒した。【引接寺創立】是に於て衆庶の喜捨を乞ふて一精舍を創立し、堂塔坊舍四十餘宇の落成を告げた。因つて正平二年八月俊澄を請じて、入佛供養の導師とした。此こと叡聞に達し、勅定山引接寺の勅號を下賜せられた。此時俊澄名を智演と改めた。(勅定山引接寺緣起)十五郞は入道發心して名を專阿と改め、念佛誦經を事とし、父の五郞三郞は、後主計頭と稱し、堺の刺史となつた。(堺鑑中、和泉名所圖會卷之一、開口神社文書)