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(一〇)伊東義祐

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 伊東義祐は日向國飫肥城主伊東氏の第十五世に當る。文明十七年六月祖父祐國、薩摩に戰ふて陣歿し、子尹祐繼いで卒し、其子祐充後を襲いだ。義祐は祐充の弟で、始め祐清といひ、小字は虎熊丸、後六郞五郞と稱した。(寬政重修諸家譜卷第八百九十二)祐充の嗣となつて、天文六年四月從四位下に敍せられ、將軍足利義晴の諱字を受け、十年八月大膳太夫に任ぜられた。次いで十五年十二月從三位に陞り、後剃髮して三位入道と號した。十八年二月將軍足利義輝の旨を以て相伴衆に列せられ、永祿三年家督を嫡男義益に讓つたが、十二年義益卒し、嫡孫義賢猶ほ幼年の爲め再び國政を執ることゝなつた。天正四年以來屢々島津義久と戰ふたが、五年十二月島津家に内應するものあり大敗し、十三年【義祐の末路】八月五日遂に大阪に卒去した。享年七十三。法號を直翁照眼金柏寺と號した。(寬政重修諸家譜卷第八百九十二)【慈光寺と義祐】堺慈光寺(現中之町東三丁)に義祐卽ち金柏院殿三位入道の壽像一幅を藏してゐるのは、寺傳によると入道の自畫と稱せられ、「心得超絶去、往生安養國、橫五惡趣、惡趣自然閉、一切善惡凡夫得、生者莫不皆乘阿、彌陀物大願業力、爲增上緣」の讚がある。(金柏院殿三位入道壽像讚)同寺記錄に、義祐深く當寺に歸依し遂に來つて剃髮したと見え、(慈光寺記錄)近世に至り義祐の畫像及び其墳墓の同寺に存在せる事分明となり、(堺市史蹟志料)文化十一年五月始めて、飫肥城主伊東修理太夫の代參として、同藩の大阪藏屋敷より橫山角右衞門なるもの來つて法要を營んだ。爾來明治維新に至るまで、同家との關係は持續せられたやうである。(日向國飫肥城主伊東家大坂藏屋敷諸事記)墳墓も亦、文化法要の際修築せられたものであらう。