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(二五)一休宗純

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 一休初の名は周建、華叟宗曇の法を嗣ぎ、自ら狂雲子或は夢閨瞎驢國景曇華と號した。(紫巖譜略)母は藤原氏、應永元年正月元旦誕生した。後小松天皇の皇胤と傳へてゐる。六歳の時京都安國寺に入りて侍童となり、後應永二十二年近江の堅田に赴き、【華叟に師事す】華叟に師事し、同二十七年五月鳴鴉を聞いて大悟した。爾來京畿の間を轉々していたく禪風の頽敗を歎じ、不覊の狂體に時流を睥睨しつゝ提撕に力めた。其間永享四年冬南江宗玩と携へて堺に來り、同七年亦在留し、既にして應仁、文明の際亂を避けて酬恩庵に入り、文明元年奈良を經て堺に來り、八月住吉の松栖庵に寓した。翌二年一檀越が同地の坂の井に小庵を營み一休を請じた。卽ち諸弟子を率ゐて移り、庵を雲門庵と稱した。同六年二月勅命大德寺住持職たらしめんとせられ、入京して其第四十七世となつた。【牀菜庵々居】既にして同八年住吉小野に庵居し、牀菜庵と稱した。翌九年同庵南畔の竹林中に小亭を構へ多香多福香嚴と稱し、苦熱を避けた。此牀菜庵淹留中に、堺の豪商尾和四郞左衞門宗臨等屢々之を訪ひ、禪要を問答したといはれて居る。十年三月住吉を出でゝ、又薪の酬恩庵に入り、十一年六月新たに法堂を大德寺に營んだ。(一休和尚年譜)應仁兵燹後、【宗臨と一休尾和宗臨の外護を得、文明年中其佛殿を再興し、(尾和宗臨畫像贊)其他如意庵、大用庵を再建した。眞珠庵は一休の遷化後、宗臨前約を踐んで之を再造した。猶ほ一休牀菜庵在寓時代屢々堺津甲斐町中濱、扇屋甚右衞門を訪ひ、窮乏を憐んで扇の地紙を取寄せ、或は銀臺繪等を描き與ふるや、世人之を賞翫し、買ふ者市をなして、忽ち有福となり、これより聟入一休の俗談を生ずるに至つたと云はれてゐる。(堺鑑中)又其弟子岐翁紹禎と、【集雲庵開基】堺の集雲庵を開基した。(堺鑑中)文明十三年十一月二十一日酬恩庵に於て示寂。世壽八十八歳。作るところの頌偈二卷を狂雲二集と云ひ世に行はれてゐる。( 休和尚年譜)