日言は天安院と號した。【日祝の高弟】幼にして頂妙寺の日祝に學び、早く聲名を馳せ、壯年關西に遊んで天台教觀の奧旨を硏鑽し、本化別頭の宗致に通曉した。斯くして日祝門下の上足に推され、永正十年四月日祝の遺命により、【頂妙寺第二祖】頂妙寺の第二祖となつた。大永三年將軍足利義晴の教命によつて、寺地を高倉通椹木町に移し、細川高國に倚り、堂宇を造營した。天文二年肥前に到り、松尾山の導師職となり、專ら力を西國弘通に致し、其德化に歸するもの甚だ多かつた。天文の法難に堂宇灰燼に歸したのを聞いて、十一年歸洛して其再營に力め、翌年更らに大乘院を創建して同寺に隸屬せしめ、弘治元年寺を法姪日珖に囑し、【頂源寺隱遯】堺頂源寺に隱遁し、二年八月二十六日世壽七十九歳を以て示寂した。(聞法山歷譜幷緣由傳記)