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(七二)半井瑞策

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 半井瑞策、名は光成、明親の子で、明英の弟である。從三位、宮内大輔修理大夫を兼ね、昇殿を允された。【驢庵】剃髮して驢庵瑞策と稱し、通仙軒と號し、正親町天皇勅して院號を賜ふに及び、通仙院と稱した。醫術に精しきを以て、僧綱を經ずして、素絹の着用を許され、素絹菊花拔白の袈裟、【醫心方の下賜】紫八ッ藤の指貫並びに丹波康賴の撰述にかゝる祕府所藏の醫心方三十卷を賜はつた。醫心方は本邦醫經中最古のもので、全帙を存するもの、海内唯此一部あるのみである。其後復隱殿の下賜があつた。恩賜の建物は、其後瑞策の甥其一半を堺に移した。卽ち現今堺市熊野町東一丁にある半井氏の邸宅で、唐破風造の玄關を有する建物、他は紫野大德寺眞珠庵通仙院の建物卽ちそれである。(半井家系圖)【信長、秀吉の信任】織田信長瑞策を愛し、豐臣秀吉も亦頗る信任した。諸侯伯治療を請ふもの虛日なく、其名聲を海内に馳せ、當時天下の醫を學ぶもの、多くは其門より出でた。一日近江の人來つて診を請ふた。瑞策曰ふ、疾は無いが必らず死なんと。明日果して弓箭に中つて死んだ。是を以て時人其深玄の妙慮を稱した。(寬政重修諸家譜卷第六百七十九)晚年堺に隱栖し、天正五年八月二十五日歿した。享年七十五歳。法號を通仙院殿良室瑞策居士といふ。大德寺眞珠庵に葬つた。(半井家系圖)