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(一〇九)南坊宗啓

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 南坊宗啓始めの名は宗慶、後に宗啓と改めた。堺集雲菴の第二世である。(茶人系傳全集)集雲菴は後に南坊と改めた。南坊宗啓は、卽ち南坊に住んだ宗啓の謂である。宗啓禪旨を究むると共に、【南坊茶湯の祖】茶湯利休に學んで、其奧義に達し、遂に臺子の法を始めとして、種々の奧祕を授與せられた。南坊蝶疊と稱する棚飾は、宗啓の創意になつたものである。又向爐、切爐のことに就いては、利休と論議し、褒詞をさへ受けたこともあつた。斯くして利休門人中の第一人者として、遂に利休をして、吾が歿後に至り、兒孫にして若し茶湯の師を求めんとするものあらば、宗啓より他に其人はないとまで、【利休の推稱】推稱せしむるに至つた。然も宗啓自ら清貧に安んじ、名器とてはもとより、露地さへもなき、集雲菴三疊の茶室に、再三利休を招いて茗讌を開いたこともあつた。

第三十三圖版 南坊宗啓書狀

 
 
 宗啓は利休の歿後、其弟子漸く離散し、又は他門に走るものあり、殊に利休が其生前に於てすら、丿貫等の同輩より誹謗攻擊を受けたこともあり、(雲萍雜志一)茶湯の衰へんことを憂ひつゝ日を送つたが、利休の第三囘忌を終へた三月二十八日飄然として集雲菴を出で、逐に行方知れずに終つた。(南坊錄)